Vol.36
 私のネオン屋稼業奮戦記 
     中国支部  (株)しみず工房  清水忠務
清水忠務さん <クロード編>

 私は旧制中学を卒業と同時に、田舎であります、因島市のモートル屋へ就職しました。なかなか教育熱心な社長で、来る日も来る日も電気の手ほどきを受けました。学校がその筋でなかったために必死で勉強もし、仕事にも打ち込みました。三年程そこで鍛えて頂き、単身広島へ出て来ました。中国電気工業の先輩を頼ってのことです。あれこれ面倒をみて頂き、広島クロードネオンへ世話をしていただきました。

 終戦6年目の広島はやっと落ち着きを取り戻し、真面目に働きさえすれば、飯だけはどうにか喰えるようになっておりました。

 クロードの社長との面接で、その勢いに圧倒されました。昼食をご馳走になりながら、『この広島の街を見たか。真っ暗じゃ。俺は広島中をネオンで埋め尽くしてやる。やり甲斐があると思わんか。大船に乗った気でついて来い』と、言われました。私は30分でコロッと参ってしまいました。ところが半年程は仕事が無くて、女工が造るネオントランスの手伝いをよくしたもんです。トランスの鉄芯が少なくなると、中国電力へ出かけ、原爆で焼けた昇柱トランスを解体し、そこから出るコアーを代金代りに貰うんです。捲線は高価なもので、中国電力へ収め再生されます。それは重労働でした。錆付いたケースを大ハンマで叩き割る、非常に原始的な手段です。油は吹き出すし、破片は飛び散るし、とにかく大変でした。そうしないと鉄芯材料が手に入りません。

 その内、世間も徐々に復興し、色々な品材が出回るようになりました。たまに、30km離れた呉市へネオンの取付けに行く際は、馬車で看板を運び、職人は汽車で行って取付けをするんです。10km位の所は自転車へサイドリヤカーを付け、梯子を積み、それへ修理管を括って出かけます。時にはそれをシェパードに漕がすんです。これが曲者で、社長が表で見送っている間は本当に一生懸命引っ張りますが、暫くするとへばって座り込みます。下り坂に来ると犬を乗せ、私たちが漕ぎます。そんな時、マツダが三輪車を大々的に売り出しました。畳一畳より大きい荷台の48年式です。しかも2台購入してくれました。皆喜びました。仕事量が飛躍的に伸びました。嘘のような話ですが、市内電車で女工がネオンチューブを持ち運んで補給していましたし、バスへ小型看板を積み、山陰まで出かけていましたから。そんな時代だったんです。あてにならない日通を待つこともなくなりました。その頃から我が社は街路灯に着手致しました。破竹の勢いで、市内は勿論、島根・鳥取まで出向きます。チューブを2〜3本行灯に付け、点滅をさせるヤツ。それが大ヒット致しました。小さい市でも200基とか300基付けますと、今までと打って変った街になります。いい気分で仕事をしました。半分ここ掘れの土方仕事ですが、ネオン屋の兄ちゃんと呼ばれ、悦に入っておりました。月270時間の残業記録を作ったのは、入社2年目の終り頃でした。結婚した1週間後、米子へ40日の出張を命じられたこともあります。

<中村工社編>

 当時、中村工社はネオンの仕事をとると、必ずクロードへ外注して来ました。私が担当で、ネオンを持っては、よく応援に行くようになりました。逆にクロードは文字屋がおらず、中村の手を借りていました。そんな具合で、文字の書き手と私が、今で言うトレードの格好となり、私は中村工社の禄を食むことになります。

 中村工社は、まだ師弟関係が色濃く残っている会社で、若い人がちょっとでもミスろうものなら大変です。拳骨覚悟で仕事をしておりました。技量がレベルに達すると、一変して給与も上がるし、大事にしてくれます。私は年期奉公抜きで入社させて貰いました関係上、それはもう必死で頑張りました。ムナボールしか無かったものをドリールへ、車が無かったものを購入して貰い、アクリ工房を、そしてネオン部を作らせて頂きました。どれも効果が抜群に出るものですから、こん畜生とも言われず、次第に登り詰めて行きました。10年の契約が明ける頃は、舟入工場を建ててもらい、ネオン部が一段と大きく育ちます。電通が中村工社の社長に付いていましたので、クロードの本家をよそ目に、どでかい仕事をさせて貰いました。後輩達もすっかり伸び、押しも押されもしないネオン屋へと成長しました。

<しみず工房編>

 私は36歳になって居りました。これを期に恐る恐る独立を申し出ました。親が呼ばれ、その真意を確かめられたそうです。寝耳に水の父親は顔色を変え、私を責め捲ります。でも意志の固いのをみて、やっと許可が出ました。
『清水よ、簾分けというんじゃないが、お前が開拓したブリヂストンと国鉄を持って行け。俺に恥を掻かさんよう、やるだけやってみろ。駄目だったらすぐ戻って来い』

 溢れる涙をこらえるのが精一杯でした。父親も全面的に援助をしてくれる事になりました。

 そして清水工房を創立することが出来ました。軍艦から伝馬舟へ乗り替えたようなものです。苦労の連続でした。それでも岡山営業所をつくり、今では山口営業所、福山営業所と中国地方、特に山陽3県を自社ネットで結び、曲がりなりに飯を喰わせて貰っております。

 ネオンサイン一筋に45年、今は68歳となりました。二代目へ譲るにしても、今は不景気真っ最中です。もう少し頑張ることになるでしょうが、ネオンサインへの愛情は不変です。色々な方に助けて頂き、ここまで育てて戴いた御恩は決して忘れません。そして永い間培った技術を後世に繋ぎたい、と思っております。

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