Vol.38 |
■ 私のネオン屋稼業奮戦記
■ 運命との出会い・・・先輩、後輩、友人、恩人に恵まれて 関西支部 (株)電栄社 堺 久高 |
<生い立ち> 終戦直後に父を亡くし、それでなくても都会では食生活に貧困を極めた時代でした。 松下幸之助が懐中電灯を売り出して、あの大会社を創った立身伝を聞き、近所の電器店のおっちゃんの世話で売り歩いたものの、頼りない小学生を誰も相手にしてくれなかった。 中学に入った時、クラスに電気屋の息子がいて、その親父の寄付で全教室に校内放送用スピーカーの取付工事が始まった。 (電気屋って儲かるんやなあ…と思った) その同級生、東大へ入って大学院に進みアメリカ留学…。(試験の成績はワシと同じやのにチクショー) 父の友人で大学−警察へ同期の元日広連会長の西羅さんが経営していた日本広告企業(株)へ呼ばれて、その足で連れていかれたのが創設者喜多河初代社長が亡くなられた後を受けて社長をしていた大阪クロードネオン電気(株)でした。 昭和27年8月暑い日だったが、就職難の時代最初にお逢いした創設者のご長男喜多河現社長に工場で赤い灯、青い灯。点灯したネオン管を見せて頂き、ついでやから週末に四国の高松へ慰安旅行に連れていってやるから明日から来なさいと…(電気屋は儲かるんやなあ…と) <修行> 16才の新入生。 先輩諸氏にかわいがられてすくすく育ち?生意気な時は殴られて、殴り返して2年半程曲げ加工を教わりました。 その後、営業部のメッセンジャーをしながら、フーテンをやっていたら喜多河現社長にしかられて、人手の足りなかった名古屋営業所へ飛ばされた。ここで岩井部長(現社長)の家でお世話になり日毎、夜毎おもしろくもない?教育を受け、当時は顔を見るのもいやだった。 ヒマな時は、松下電器のカタログを持って、トースターを売り歩いたり、商店の袖看板を受注したりする内に岩井さんの話も理解出来るようになった。 年中無休の昼夜ぶっ通しが常識で、作業は鉄骨の原寸、加工、組立、板金加工、塗装は鉄骨からネオンの渡りまで、ネオン工事はもちろん、配管工事に至っては電気屋らしい工具もなくペンチに挟んで手でネジ切りをしながら全行程を消化する作業には、綿の様な疲労感を覚えながらも、電力会社の引き込み手続きをして立合検査を受け、無事完成引渡しを終えた時の充実した満足感が生き甲斐になり、そのプロセスのどんな苦労も耐えられるようになった。 36年頃から東京へ出張工事も多くなり、中でも38年の暮れに竣工した渋谷の仁丹ビルでは、役者の森繁久弥の司会で点灯式が行われ、感激しました。 <独立> ここまで育ててくれた岩井さんには感謝しながらも、東京オリンピックも終わったので大阪へ帰り、念願の電気工事屋を(儲かると思った)やる決心をしました。 昭和40年戦後に訪れた最初の不況の最中、拾い仕事をしながら同業の皆さんにもお世話になり、昭和45年、万博の頃には総合請負いが出来るようになったものの、オイルショックの翳りで仕事をやっては不渡りを喰らいました。何度か危機に直面しながらも客筋に助けられ、そして苦しい時代を辛抱してガンバってくれた社員たちのお陰で持ち耐えられています。 <今後> 今や長引く構造不況に生き残りを賭けて合併、統合を進める企業たち、どんな大企業といえども倒産しないという保証が無い時代です。過当競争の渦中に半値の8掛けダンピング。正に買手市場を支えているのが我々業者自身なのですが、絶対量の無い時期、これも致し方なき自然の法則、自助努力に務めるようにしています。 世紀末を控えてどこまで活性化できるか、政府の必至の努力も空転、切り捨て御免、端末処理されないよう自己防衛の合理化は進めたいと思っています。 <感謝> 私に修行のチャンスを与え苦しい時に励まし頂いた喜多河社長、試練とハングリー精神を育てて頂いた岩井社長、指導、鞭撻を頂いた諸先輩の方々、そして色々な仕事をさせて頂いた得意先のお客様、すべての方々に感謝し、お礼を申し上げます。 |