Vol.36
 出会う人は皆 先生でした 
     中部支部  シンヨーネオン電気(株) 國定嘉文

清水忠務さん 昭和31年中学を卒業後、福井県の田舎村より東京へ。商売を身につけたく、また腐らないものが良いと思い、住み込みにて機械工具の金物店に就職しました。

 丁稚奉公ですが、今でも私たちが最後だろうと同級生たちと話題になります。この後、中卒者は金の卵に変身し、大手企業からの求人が増えて行きます。

 昭和33年3月、父の勧めもあってクロードネオン電気株式会社にお世話になることになり、名古屋に参りました。卒業後2年のブランクがありましたが、やはり高校は出なければと思い、愛知工業高校電気科に入学いたしました。夜間通学の便宜上ネオン工場に配属して頂き、一ノ瀬さんや堺さん(現電栄社社長)に電極作りから、極つけ、曲げ加工、排気と教えて頂きました。

 工場の2階に寄宿していた私は夜中に破損管をよく作った思い出があります。また休日には現場について行き、堺さんより工事のいろはを教えて頂きました。もちろん生活が苦しく、1日250円の手当も魅力でした。通学も6キロの道程は市電にて時間もかかり大変でしたが、先輩(中央アドボード服部社長)から自転車を頂き涙の出る嬉しさでした。先輩は退社されますがその後独立をされ、今も取り引きをさせて頂いております。

 通学は大変でしたがこれから10年生きる方が難しく、4年なら何とかなるという思いでした。過去、地震台風は何度も体験しましたが伊勢湾台風は特別でした。屋根瓦が飛び、滝のような雨漏りの中エイジング台で一夜を過ごしました。大きな被害の中多くのサインも壊れ、トラックの荷台に乗り毎日毎日現場へ走りました。

 2年を過ぎた頃、現場へ行く事が楽しくなり、無理を言って工事部へ配属して頂きました。卒業後サインは益々大型化し、東京オリンピックや皇太子御成婚等、未来に明るい話題も多く、カラーテレビ、洗濯機、冷蔵庫の3種の神器、所得倍増と景気はうなぎ登りでした。新婚早々にも3ヶ月の長期出張、70時間の連続勤務、1ヵ月残業240時間、休出6日、徹夜7日と身体はボロボロ、精神力だけで完成した工事も多数ありました。

 そんなある日、引き渡しを終え帰社途中追突事故に合い、三カ月の長期入院を致しました。退院後おそるおそる現場に復帰致しましたが、会社のシステムや将来に不安を覚え、骨を埋める覚悟でしたが昭和42年12月末に退職致しました。

 退職後も足かけ10年の思い出は深く、無意識のうちに会社への道を走っていたことも何度かありました。

 さて、退職後シンヨーネオンサービスを設立し営業を開始しました。設立といっても名刺に名前と呼び出しの電話番号を記入したもので、事務所は自宅6畳2間のアパートでした。資金も得意先も無く、あるのは若さだけ、せめて信用をとシンヨーと名付け、仕事を依頼に知り合いを訪ねますが、営業は全くできませんでした。そんな折り、入院中に知り合いました井上ふとん店さんより依頼があり跳び上がる思いでした。またクロードOBの(株)大電近藤社長様や日東広告(株)の小倉様より依頼があり、その他材料店様の紹介等、下請け募集の広告により同業者の工事等を請け負いました。6カ月を過ぎるころ、志を共にした阿礼敏夫君(当社専務)が加わり、近くに工場を借りて看板の組み立てや製作にも着手しました。営業は下手ですからお声をかけられた仕事はお断りせずに、少数精鋭にて速く安価に美しくをモットーに絶対工期には完成させました。

 昭和45年株式会社設立、シンヨーネオン電気に改称しました。

 3年、5年と売り上げも上がり調子に乗りかけた時、オイルショックです。売り上げも60%に落ち込み一番安心していた得意先が倒産し、5ヵ月分の売り上げが不渡りとなり倒産寸前に追い込まれました。資金の手当てもすぐには儘なりません。夜逃げをしようか、いっそ死んでしまおうかと悩みました。しかし見通しの甘さや経営の甘さを反省し、協力業者様に支払い日の延期と手形の発行をする事にて、5カ年計画を立てご協力をお願いしました。

 お前の所は潰さないのか頑張るんだったら仕事はまわすぞと、お客様にも励まされ助けて頂きました。その後仕事も徐々に回復し、5カ年計画は3年にて終わりました。今では社員家族同伴にて世界一周をしました。と、笑い話です。

 オイルショックのほとぼりも冷めた後、益々忙しくなり売り上げの増大と共に社員も多くなり、昭和58年工事部を独立させて株式会社日本広建(代表取締役阿礼敏夫)を設立、お客様のご要望に応えることになりました。阿礼君は仕事熱心で後輩にも慕われ、得意先の評判も高く彼を悪く言う人はいません。女房よりも信頼できる存在にて私には過ぎ足る女房が二人おるようです。彼のお陰にて第二第三の優秀な社員が多く育ちました。

 しかし忘れもしない平成元年3月18日、春風のとても強い日でした。午後より工事中止を連絡に事務所を出ようとした時のこと、現場より事故の一報が入りました。あわてて車を走らせますが渋滞で侭なりません。現場に着き、壊れた足場を見て頭が真っ白になりました。7名のうち5名が落下し1名が重症と聞き、祈りながら病院へ向かいました。案内されたところは病室ではなく線香の立ちのぼる霊安室でした。どうした!田川君起きろ!起きてくれ!目を覚ましてくれ!・・・いくら呼んでも叫んでも声にはなりませんでした。テレビのニュースで全国の知り合いから、心配や励ましの電話を頂き、また多くのお得意様にもご理解とご協力を頂きました。その後怪我をした社員も順調に回復し、元気に復帰致しました。現在もご遺族には命日と盆と暮れには、お参りを許して頂いております。

 当社の社員は優秀であり安全教育も徹底しており、まさか、と安易な気持ちがあったことが今も私を苦しめております。「お前んとこは忙しすぎるんや、お前なぁあんな下請け使うたらあかん」と、厳しいご意見も頂きました先輩やお客様もあります。お得意さまには多大なご心配とご迷惑をおかけ致しました。しかしその後もいろいろとご配慮を賜り、今もってご指導頂きます事、誠にありがたく感謝致しております。毎日神棚に手を合わせ安全祈願を致しましても、未だに心は晴れません。安全に明るく楽しく働ける職場を目指して、お得意様には感動を覚え喜んで頂きますよう、感謝申し上げて仕事に取り組んでいます。ネオンに関わり42年の歳月が流れました。名古屋クロード岩井社長様始めネオン管加工を教えて頂いた一ノ瀬さん、管加工、ネオン工事を教えて頂いた株式会社電栄社堺社長様、創業時よりご指導頂いた日東広告の小倉さん、自転車を頂いた中央アドボード服部社長様、最初に仕事を頂いた井上ふとん店様、大電近藤社長様、幅広くご指導を頂きました高村会長様始め株式会社昭和ネオンの皆様、不器用な私に永年のご指導誠に感謝致しております。

 その他多くの方々との出会い、馬鹿にもされました。いじめにも合いました。だまされもしました。良いことも悪いことも教えて頂きました・・・。

 私には皆先生でした。

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