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■ ネオン管曲げの名工を夢みて
■ 東北支部 (有)矢沢ネオン工業 矢沢 茂さん |
私の“ネオン”の始まりは昭和28年からです。その頃は高校に進学する人、就職する人が半々の時代。余り頭の良くない私は就職の道へ進むことになりました。親戚が東京で電気工事業をしていたので何か仕事がないかと聞くと、ネオンはこれからの産業だからやってみないかと言われ、連れて行かれた会社が東京ネオン株式会社でした。 その頃会社は大田区にあり、前社長の廣邊さん、また私に仕事を教えてくれた小高さん。二人共温厚なお人柄で、よほどの失敗がなければ怒ることはありませんでした。会社に入って3ヵ月間ネオン管を曲げる練習、その間荷造りの手伝い等もやらせていただきました。私の作業を見ていた小高師匠は、不器用な私を排気の方に付かせてくれました。 昭和30年頃に、特約店であった秋田のカトウ看板店で、ネオン管の修理が出来る人を欲しいということで、私に行かないかとの話をいただきました。知らない土地なので不安でしたが、廣邊社長の勧めもあり工事も覚えた方が良いと、三島の三共製薬の現場に連れて行かれたのです。 ところがここは当時DDTの農薬を作っていて、連日臭いに悩まされました。その間ネオン管の製造の機械も整い、出発前に二日休みをもらい東京のネオンを見て歩きました。その頃銀座には森永の地球儀のネオン、浅草には仁丹のネオン塔、各商店街にはネオンアーチまた街灯にも多くのネオン管がつけられていた時代でした。 当時、上野から秋田までの汽車は一日二便、特急で12時間かかりました。 機械の設置も終わり、仕事の方も始まったばかりの時に入った仕事が、20センチ角ほどの英文字でした。まだそのような小さい物を曲げた経験が無く、小文字の曲げはガキガキの型にして納めました。 やがて初めての冬を迎えて秋田の雪のきびしさがわかったのです。東京で覚えた曲げでは雪の中でもたないので、肉厚にしてチップの切り方等に苦心しました。現在の私の技術はこのような気候によって向上したと思います。当時カトウ看板店の会長も男盛りで、一週間のうち数日しか帰れない程の営業の忙しさで仕事も多く、酒造メーカーのネオン管を多く曲げたおかげで、私の技術も更に磨きがかかりました。 秋田に来て十年の歳月が流れて、ネオン管の物品税が廃止されたのを機に独立を決意しました。カトウ会長には独立してもカトウ看板店の得意先は荒さないという条件で承諾をいただき、この約束は今も守っております。 独立したのは良いが金が無かった私は東京に行き、前廣邊社長に相談し、木村電気の前社長にも相談したところ、「矢沢、お前の材料は金が入ったら支払ってくれれば良い」と計らっていただきました。私は今日になってもこのお二人には心より感謝しております。 あれから35年。自転車で営業に行き多くの得意先も出来、この間いろいろな日本経済の波、オイルショックによりネオン消灯、今のバブル不況、本当に世の中はうまく行かないものだと思います。 息子二人も好きな仕事をして良いと言ったのですが、私の苦心してやって来た得意先がもったいないので、ネオンの仕事をやって行くとの事。長男は営業と現場、次男はネオン曲げ、もう一人は私と共にやって来た現場の人と四人の小さな会社です。『会社は小さく仕事は大きく』これが私の心情です。唯ネオン一筋に、私も64歳。ネオン管曲げの名工と言われるくらいに成りたいと夢を見ております。 現在多くの得意先、また亡くなられた前廣邊社長、木村社長、小高師匠に心より感謝しております。カトウ看板店会長にはぜひ長生きをして頂きたいと思っております。 全国の同業者の皆様ともども、必ず好景気が来ることを期待したいと念じます。 |