Vol.42 |
■ アナログ時代の半世記・・・・・
■ 北海道支部 (有)丸美真光堂 長嶋 元良さん |
年が明け、新世紀・新世紀と盛り上がりを見せていたかの世間も、早二月の半ばともなりますと何の事も無げに、何時もの年の、何時もの明け暮れに過ごす日々となりました。 折に本稿を草稿するにあたり、改めて振り返り見る想い出の中に、新世紀2000・2001年に関して些か。小生が中学生の頃は太平洋戦争も終戦後数年経ち、「紀元は2600年」の掛け声より開放させられて、昭和20年代は西暦1900年代の数えかたも定着しつつありました。恩師や(当時は未だ、教師は現昨今と異なり立派に尊敬すべき師範でした)仲間達と将来を語り合った折に、それぞれの寿命の希望・予想の話しとなりました。小生は「自分は経年の永きは欲しないが、只許されるなら西暦2000年まで生きて新しい世紀の朝の日本を見てみたい」と語ったことを想い出しました。戦争や空襲を経験すれども、戦地を知らない若者のせめてもの、願いだったのかもしれません。 私は看板屋としては二代目となります。父は映画館の看板描きでした。小屋(映画館・芝居小屋)付き、又は小屋持ちと言われた時代です。小屋の二・三館も持てば、一家はもとより、当時は未だ徒弟制度のなごりのままに、住み込みの職人見習い数名がそれなりに何とか食べて行ける時代でした。 戦後の復興期の映画は正に娯楽と文化の花形であり、主役でありました。母方の伯父が館主の関係もあり、木戸銭無料のフリーパスでした。戦前は「非一般」戦後は「成人指定」の木戸制限も何のその、訳も解らぬままに出入りして居りました。 戦中に(小学校入学前か、1年生か?)エノケン・ロッパの喜劇(今ならさしずめミュージカル?)の中で、主人公の下僕役のエノケンが高嶺の花のお姫様に恋をして歌う、「水に映りし月の影、手にとり得ざると知りながら、ああ しっぽりと濡れてみたいは人の常…」てなセリフを意味も解らぬままに覚え込んで、家へ帰って得意げに口ずさみ、親父にゲンコツを喰らった事をこの齢になっても憶えて居ります。 ゲニ恐ろしくマセたガキが出来上がり、成長するに実に罰当たりな若い衆となりました。 長男のくせに稼業を継ぐ気も無く家を飛び出し(帰れなかった?)、当時どうやら現われはじめた、スーパーの店長まがいな真似を致しました。見知らぬ土地で、その時より心機一転、無為に終わったかもしれぬ青春を取り返す思いでひたすら働き、一生懸命学びました。しかし無我夢中に過ごす一年二年の内に、次第に芽生えてきた思いは、同族経営の組織の中で、夢を育むに足りぬ思い…、と言うよりも、どうせ必死に掻く汗ならば己の身となる汗を掻く…「我が物とおもえば軽し、傘の雪」的な?感覚だったかも知れません。 何れに致しましても、親父に詫びをいれて、実家の稼業を継ぐに至りました。 丁度その当時より、テレビの普及と映画界の衰退の始まった時期でした。描きの看板から、キングサイズポスターへと、そして次々と閉館に追い込まれる映画館。食い扶持を求めて、否応無しに町看板屋へと変らざるを得ませんでした。全くのゼロからの、ある意味ではマイナスの要素を多大に抱えてのスタートでした。お得意先も、作業のノウハウも、工具も無く、当時残っていた二人の職人(従業員)と、只、身体を動かす事を惜しまず働きました。 しかし、私には手に職(技術)無く、ひたすら営業中心に動くと共に、従業員を大切に致しました。(何せ、辞められたらパンク=労務倒産…する)当時の業界には未だ残っていた徒弟制度的な家内工業体制の中、福利厚生を学び、心がけました。(この当時の二人は、現在も在職しており、その子弟も数名勤務中です) 狭い限られた市場に、程よく共存している先輩企業界に割り込もうとする若造に、「最近の看板屋の若い奴のなかに、筆を持たずにソロバンを持って歩く者がいる…云々」と叱られながら、何時かは追いつき、追い越すのだ、と念じておりました。 「立ち寄らば、大樹の陰…」とか、大手企業の専属的受注は大歓迎の筈が、親父の映画館時代の、館主・支配人との関係(殿様と家来以下…生殺与奪権を握られていた)が、心の中にあった所為か、受注は広く、どんな注文にも「ハイ!」と答えてから、考えることと致しました。(もっとも、断るなんて思うより先に、飛びついて居りましたが…) かくする内に、お得意先の分類が(失礼ながら)A…官庁(国鉄も)B…建築(ゼネコンも)C…代理店(エージェンシー・大手同業も)D…流通(家電・車輌も)そしてE…一般(不定期受注先)と、安定してまいりました。無論、日本中が右肩上がりの成長期だったお蔭で、戦力UPのため借金して、背伸びして、何とかなった時代でもありました。 その間迄には、(株)昭和ネオンの現高村会長の、訥々とした語り口のなかから、業界に賭ける熱い想いに感激し、また富士電工(株)の、連業者の会に交わり、業界の広さと先達のお蔭の今日と、「井の中の蛙」も少しは世の中が見えてきては居りました。 度重なるオイルショックにも生き延びてまいります内に、時代は昭和から平成へと、正に狂乱景気に遭遇し、受注先のA〜Eまで全てのお得意様が躍動した時期でした。明日に芽の出る根まで引き抜くような一抹の不安が、頭の隅を過る様な思いを振り払うように、津軽海峡を念願の「青函トンネル」が開通し、海峡の女王「青函連絡船」が、その永い歴史を閉じました。そして記念の「青函博覧会」が開催されました。(当時は全国的に博覧会ブームでした)消化?為しきれない受注の波の中、ガムシャラに一日23時間労働の日々が続き、今にして想えば、幸せな時季と言えたのでしょうか。 お蔭様をもちまして、永年の念願でありました、工場を新築し、旧作業場を事務所に改築し、やっと夢の実現の第一段階が…と思ったときに、バブルが弾けました。 訪れた恐怖の不況の中、その場しのぎ的対処の、「今年こそは…」の繰り返しの連続に、所謂、「空白の10年」が経ちました。丁度、太平洋戦争の日本軍が、南方諸島を順調に占領したまでは良かったが、順調すぎて、次の適切な戦略の無いままに戦線を拡大して、敗戦の道を盲進した様に、長期ビジョンを失っていた自分に、愕然と致しました。 しかし、今までにも度々遭遇した絶望的状況より脱出した事を思い出し、当時読んだ本に「企業危機に瀕して、気狂いにならぬ法」(このような題名の本があった)の文言を思い返したり、戦訓にある「指揮官とは、絶望的戦況下において、楽観的な視点を失ってはならない…」てな、言葉に己を奮い立たせ、今の日から、明の日へと繋いで居ります。 その折の昨今、この草稿のお話しを承りました。良い機会、何事も「原点に帰れ」とばかりに、所用もあったのも幸いに上京致しました。かつて若かった頃に、年に少ない東京訪問の折には必ず「銀座通り」を昼・夜歩き回り、凄まじい人波に圧倒されながら屋上のネオンの輝き、四丁目「和光」のウインドウを眺め、「すえひろ」のステーキを食べ「銀座第一ホテル」に泊るのが小生の活力の源でありました。 この度も、銀座四丁目「天賞堂」の模型を見て廻り、「三愛ビル」の前に暫し佇み、往事を偲びました。振り返るは、老化の証拠といわれますが、やはり銀座にネオンは良く似合う。しかし街を往く人々は、皆、正面を見て、忙しげに歩き、小生一人上を視ていた。 今、時代は、アナログからデジタルへと限り無く加速度的に移行しております。ネオンは、アナログの象徴でしょうか?かつて渋谷の駅前で出会った、クラリオンの「折鶴の飛び立つ」ネオンに感激したのがアナログならば、新宿のパナソニックのネオンがデジタルと言えるのだろうか?…等々。 あれこれ、想い巡らせつつ、先輩と待ち合わせのホテルに急ぐ車窓から見るネオンは、理屈抜きで美しく輝いて見えました。ネオンを眺めるのに理屈は要らないか・・・・・・? |