Vol.43 |
■ 次世代に引き継ぐ心意気 「出来ません」を死語に
■ 九州支部 福岡電気工事(株) 弟子丸安生さん |
私の父が昭和21年九州電力を退社後、福岡電気工事を設立し、昭和26年頃電気工事組合の役員をしていた関係でネオン会社を引き受けてくれと頼まれたのがネオンに関わったそもそもの始まりでした。 2年後、大阪クロードさんから博多駅前(旧)ナショナルビル屋上に電球型のナショナル電球のネオンの下請けをさせていただきました。1文字がH-3000位で電球の数が約2000個あり、当時高校3年生だった私が1人で電球(寸丸)を付けた思い出があります。その当時お世話になり、後に全日本ネオン協会の相談役になられた船尾さんのお元気な姿が今でも思い出されます。 私は、昭和28年大学受験に失敗し(勉強せずラグビー部の連中と遊んでばかりで通るはずがありません)浪人しようかどうか迷っている時、別府の占領軍の電気工事を手伝えといわれ、2ヶ月ほど行って帰ってきました。 そのころ一人いたネオン工事の職人さんが放浪癖がありいなくなることがしばしばで、私に声がかかる次第でした。私もこのままではいけないと大学をあきらめ修行に出ると母に申し出ましたが、そのころ父の体調が思わしくなく良くなるまで待てと言われ、思いとどまりました。その後、父が元気になった時には私がいなくてはネオンの方が成り立たなくなり、この業界に関わることに相成りました。 当時はネオンの仕事も少なく、九州各県の電気工事屋さんの紹介やネオン管製作の依頼等で細々とやっておりました。ネオン管の荷造りで木枠にひもを掛けて、ネオン管をつるして送る(チッキで)という手の込んだ荷造りの仕方でした。ネオン曲げの職人さんは仕事ができるようになると辞めていかれたため、一層自分が覚えようと決心致しました。 以来、九州大学高周波実験室の奥住氏(東芝から西日本ネオンにきて九大に入られ、退職後平成8年まで来ていただきました。現在80歳でお元気です)に指導をお願いいたしました。それからが大変、現場から帰って毎日深夜12時まで休みなしの生活が始まりました。奥住先生は大の酒好きで工場に来られたらまず一杯、私がネオン管排気の失敗をする度に一杯といった具合で、一日に五合くらいは飲んで帰られました。やっとの思いでネオン加工まで身につけたおかげでネオン業界にどっぷり漬かることになりました。 私は電気工事からネオン業へ入ったものですから、一次配線、二次配線はすぐに覚えられましたが、看板製作のことは全くわかりません。 すべて外注のため利益が殆ど出ませんでした。昭和30年代は道路横断のアーチ型ネオンが流行でした。組み立て方などは他社の工事中の下を行ったり来たりして盗み見て覚えました。ペンキのこともよくわからず、塗ればよいと思い塗ったものはなかなか乾かず大変困った思い出があります。 当時困っていたのは、ネオン管を仕入れることでした。九州には管メーカーの日東さんの出張所があったのですが撤退されたため、東京・大阪方面から仕入れていました。そこで、九州ネオンの中田社長と西日本電機の持田社長が中心になって会社を起こされました。それが現在九州支部の大きな財産になっている組合の資材会社、全九州電材社です。組合事業の半分を負担しているため、我々組合員の大きな力となっております。 そうこうしている内に、ハダ工芸社のネオン工事をすべて請け負ったり、装美社の広島営業所からマツダの九州一円の受注ができるようになりました。当時の装美社の大森さん(現在ナンバネオンで活躍されています)とは現場調査で九州各地をご一緒し、夜になるとよく飲んだことを思い出します。(2人とも若かったです)当時としてはマツダの仕事は予算が厳しいものでしたが私にとっては良い勉強になりました。クレーン車は少なく鹿児島に日通が1台持っている位でしたので、鹿児島県川内市内の工事の時は夜中の12時に博多を出発し朝到着してその日の内に組み立て、翌日クレーンで建てあげ、夜に博多へ帰るといった工事の繰り返しでした。道路事情も悪い中よく事故も起こさずこれたことだと思います。 昭和46年の不況で父が借金を抱えてしまい、借金人生の始まりとなりました。当時は受注も多く、利益率も悪くありませんでしたので、自転車操業でなんとか廻すことが出来ました。さらに48年のオイルショックの時はネオン工事は全くない状態でしたが、運良く受電設備の工場を3件受注していたので何とか食べていくことは出来ました。しかし電気工事はネオンに比べると資金の回転率が悪いので、借金を早く返すためにネオン工事に主力を持っていくようになりました。 昭和58年頃になるとパチンコブーム到来でネオン管製作がパンク状態になり自社分でも手一杯なのに知人の紹介やあの手この手で頼まれ断りきれずに、休みもなく毎晩遅くまで頑張ったものです。それでも病気で倒れることなく丈夫に生んでくれた両親に感謝するところです。 おかげで父が亡くなる1年前には借金を完済し、「親父、借金は終わったぞ」といって病気の父を見舞ったときに伝えたときの笑顔が今でも忘れられません。少しは親孝行した思いでした。 よいことばかりではありませんでしたが、昭和60年に入ってからネオン業をより充実させるために昭和63年、すべて自社製作の外注なしを目標に現在の工場を建てることができました。さらなる借金生活の始まりのため女房は反対しましたが、前回は負の借金、今回はプラスの借金のため気分的にも楽な気持ちでした。 平成に入りますと上杉理事長が引退すると言われ、降って湧いたように私に理事長の話が舞い込んできました。我が社のスタッフも充分ではないのにとても出来ないとお断りしましたが、寄り切られ1期だけでもと、お引き受けしたのがずるずると4期も務めさせて頂きました。なんとか無事に務められたのも九州の組合員皆様のご理解とご協力を頂き、また何も分からない私を引っ張っていただいた廣邊会長をはじめ理事の方々のおかげだと感謝致しております。 また、引退の時私にとって身に余る「通商産業省資源エネルギー庁長官表彰」を頂き、重ねてお礼申し上げます。 最近は後継者不足で廃業される方もいらっしゃいますが、私の方は息子が2年前から手伝ってくれるようになりました。おかげさまでお得意さまも増え、無理難題をかけられても「出来ません」を死語にしてどうやったらできるかを前向きに考え、今後も頑張って息子に引き継ぎたいと思っております。 総理大臣が小泉さんになりました。これを機会に景気の回復を期待し、組合員のますますのご発展をお祈りいたします。 今後とも宜しくお願いいたします。 |