Vol.44 |
■ 変人の我が人生に悔いはなし
■ 関東甲信越支部 (株)昭和化成会長 田中 繁夫 |
私ごときに本欄への執筆依頼がありました。恐れ多くもまた光栄でもありますが、世の中では小泉総理になり、変人が流行りになっていますので、業界で変人とされている私にご指名があったのかとも思いながら筆をとりました。 私は昭和7年、東京神田の帽子屋の3人兄妹の長男として生まれ、小学校6年生の昭和19年、戦争のため愛知県一の宮の在に疎開し、疎開先で終戦を迎えました。それまで比較的不自由なく生活をしていましたが、終戦後すぐ10月に父親が亡くなり、疎開先にいつまでも居るわけにいかず、母親と2歳の妹とともに群馬県太田市の遠縁を頼りました。しかし、預金は封鎖、現金は新円に切り替えとなり、インフレの中で、無一文同然になってしまいました。 そのため食糧難の世の中で子供ながら闇屋の生活を2〜3年やりました。闇屋というのは別名かつぎ屋でして、一時間半くらいかけて赤城山の山麓まで行って仕入れたジャガイモや地元のねぎとか、みょうがなどを担いで、朝5時に家を出て、群馬の太田から、電車は満員ですので連結器や屋根のパンタグラフのところに乗ったりして浅草まで行き、新橋の花柳界界わいで売り歩きました。たまに警察の手入などがあり大変でした。 その後、手に職をつけなければと日本橋の硝子店で今の時代では考えられないような厳しい小僧時代を5〜6年送りました。プラスチックを主に、東芝の照明用カバー関係の成形加工の仕事をしていました。小僧というのは、朝は5時から起こされ、雑巾で廊下を乾拭き、朝夕の主人の食事中は子守りをして昼間は休むヒマもなく働き、しかも給金は無給で、2〜3ヶ月に一度、映画代をもらっていました。休日は、盆(8/15、16)と薮入り(1/15、16)だけでした。(その代わり、戦前は、暖簾わけで独立させるという話もありましたが?) そのうち時代も変わり、また20歳になり、成人式を迎え、並の会社生活をするようになりました。しかしながら10年勤めたところで大卒も何人か入り、何分小僧上がりでは先の見込みも暗く、お金も自信も皆無でしたが悩みに悩んだ末、最後には度胸を決め、退社。 昭和32年、知人の6畳間と軒下を借り、それまでと同じアクリル成形加工ですが、異業種の看板、ネオン用のプラスチック加工と喫茶店、パチンコ店それにキャバレー用の入口のアクリドアーを専門に仕事をはじめました。当時、基礎的な名称や文字の何かもわからず、丸ゴシ、角ゴシもチンプンカンプンで何だかわからない中で先輩の仕事を見様見真似で、3年間ほど無我夢中で社員とともに俗に夜も寝ず、雨の中で合羽も着ず、もちろん日曜祭日なしの365日働きました。ドアー関係では、同業も少なく、はじめて見聞きするものばかりで、セメントのこね方、部品の名前、タップの切り方もわからず、聞く相手もなく失敗を重ねました。 全国を取付や営業で飛び歩き、1ヶ月に50軒位の工事をしているうちに、気が付けば何時の間にかいっぱしの加工屋になっていました。 しかし、プラスチック加工とドアーの販売・取付が半々では何分にも不安定のため、看板の成形加工一本に絞りました。今振り返ってみますと看板・ネオン用プラスチック加工といい、アクリドアーといい、ズブの素人がいきなりわからない業界に飛び込み、我ながらよく仕事がやれたものだと思います。時代もよく、業界(看板、ネオン)がプラスチックの黎明期にあたり、追い風があったかも知れません。また私が幸運にも長年手慣れた照明カバー関係に入らず、建築用プラスチックにも行かずに、細い光を頼りに広告看板業界に入れたのも皆様のお蔭と感謝でいっぱいです。 お蔭様で現在は、2年前に設けました大阪の豊中工場も含め、4カ所で社員にがんばってもらっています。 これまで「呑む、打つ、買う(=株)」は言うに及ばず、いろいろな事件を経験しました。まず水害で、独立後すぐ早稲田で台風のため大水害に会い、川から溢れた水が胸の高さまで来て3日も水が引かず、モーター、材料が使用不能になりました。次は、火事で千葉工場の隣から出火、100坪の敷地に建てた工場でしたが、何分、市内の住宅密集地にあり、大量のアクリル板と塩ビ板から黒煙とガスが出て大騒ぎになりました。その後、千葉市内の臨海工業団地に移りました。 「打つ」ほうでは、若い時にお客様との関係で府中競馬の馬主になり、アクリライト号と名付けたサラブのメス馬でしたが、馬をはじめ花札からチンチロリンに至るまで馬主仲間に仕込まれました。これは3年程で止め、次は、マカオからラスベガス、マニラ、セブと移り、最後はソウルのウオーカーヒルへ月1回のペースで通いました。 おきまりの「呑む」の方は、熱海、伊豆に始まり新宿、銀座と安い酒を飲み、呑み歩いていました。尻尾も出さずに何とか逃げ切れそうですが、最近は酒も弱くなり自重気味です。 「買い(株)」ですが、1回の相場が終わると知人の50%の人は資金が無くなり自然と顔も合わなくなり、また何年かして資金を貯め、多数の人(法人も)は昔の夢を求めて懲りずに帰ってきますが、負けるのは多分最後の詰めで欲を捨てられないためでしょう。10年間では10%位の人しか残らず、あとは入れ替わります。私は、アメリカからソウルに至るカジノも、東京株式も40年間やっていますが、どういう訳か分かりませんが負けは数える程しかありません。 日本経済は、昭和30年代は、底が浅く今の韓国と同様に、2〜2年に1回は不況になりましたが、1年から2年で回復していました。その後、オイルショックからミニバブル、バブル、不良債権の増大等を経過しまして、現在はずっと景気が悪いとされていますが、私は、今回は、時代の節目もありますが、山が高かったので谷が深いというだけであると思っております。 私は、借家、借地、借金はしないし、たとえ自動車の月賦でも手形は出さないということでやってきました。また、今日になってみますと、個人も会社もバブルが無かったかわりにバブルにもひっかかりもせず、幸いでした。4年前に社長を退きましたが、お客様、社員また家族にも恵まれ、現在は、ゴルフ、釣り、山登り、海外旅行、国内旅行と平穏無事ながら忙しく、充実した生活を送っていまして、皆さんご存知の我が出鱈目な人生に悔いなしです。 |