■ ウスベキスタンの旅は道連れ ■ |
(株)東京システック 小 野 博 之 |
アメリカのアフガニスタン攻撃以来、その周辺国の一つとしてにわかに注目されることになったウズベキスタンだが、以前はどこにあるのか知らない人が多かったのではなかろうか。実は私もその1人だが、そのウズベキスタンに昨年の5月、偶然旅をすることになった。そんなわけでこの国の臨戦国としての情況にはいささか関心を持たざるを得なかった。
私はサインのひろい歩きを目的に毎年のゴールデンウィークは海外旅行に行くことを楽しみにしているが、今年はお目当てのツアーが土壇場で催行中止となってしまった。仕方なく代わりのツアーを探したが、それが、希望していた国どころかどこもみつからない。海外のツアーの場合、通常40日前に申し込みを締め切る。それ以降はホテルや航空機の予約の関係上割り込みが難しい。旅行代理店各社のパンフレットで数あるツアーの中からめぼしいものを当たったが、出発希望日まで30数日のその時点では催行中止になったか、予約打ち切りかのどちらかしかない。最後の切り札、私の従姉妹が小さな旅行社をやっているので、どこでもいいから空いているツアーを探してくれと頼んだら、敦煌かウズベキスタンならOKとのこと。敦煌はちょっとハードだし、目当てのサインはありそうにもない。ウズベキスタンは出発が関西空港とあってちょっと面倒だがここならサインも少しはありそうなのでこれに決めた。しかし、正直なところこの国についての私の知識はゼロに近かった。 旅行社から、正規便が満席となったのでわれわれは臨時便で行くことになりましたと連絡があった。あまり知られていないこの国のツアーがなんでまたそれほど人気があるのかと不思議だったが、その謎は当日空港に行ってみて初めて解けた。出発は4月28日。その日が関空とウズベキスタンの首都タシケント間に定期便が就航した初日だったのだ。そのため、多くの旅行社がこぞって記念のツアーを企画していた。 「祝・関西空港−タシケント定期便就航」とパネルの掲げられた搭乗ロビーで待っていると関係者や報道陣が集まって来てセレモニーが始まった。スピーチの後ウズベキスタンの民族舞踊が披露され、後ろの方でそれとなく見物していると関西テレビのリポーターがカメラマンを従えて近づいて来た。「どうしてこのツアーに参加したのですか」との質問に咄嗟のことで「これしかなくて」と応えたが、考えてみればこれはボツ間違いなしだろう。 中央アジアに位置するウズベキスタンはその昔、シルクロードの要路として栄え、アレキサンダー大王やチンギス・ハン、ティムールなどの英雄が覇を競った壮大な歴史をもつ。そんな栄枯盛衰の物語や今も残る華麗な建築群に私の関心も高まってきた。 海外旅行では偶然行き合わせた人たちと知り合いになるのも楽しいものだ。 ツアーの同行者は19名。夫婦連れが多い中、男性の単独参加が私を含めて4人。最長老はその1人で78歳の産婦人科の先生だが、長身にシャツもズボンも黄色といういでたちがひときわ異彩を放つ。もう1人、73歳の大阪から来た内科の先生がいたが、海外旅行の常連はそんな医者先生と学校の先生。学校の先生はヒマが在り、医者の先生は金があるからだろう。今回の両先生はとっくに息子に医院を任せ、しょっちゅう出歩いている様子で高齢ながら旅なれた感じ。年の頃30歳前後の女性二人と男性1人の組み合わせのグループがいたが、以前あるツアーで一緒になり、それ以来スケジュールを調整して一緒に旅行するようにしているとのこと。同行の添乗員Yさんは「皆から山田邦子に似ていると言われます」と自己紹介したが、なるほど顔といい、やや大柄なところといいよく似ている。性格も似ているようで、明るく気さくな女性なので安心した。 ウズベキスタンの空港でわれわれ一行をにこやかに迎えてくれたのは、これからのバスで巡る6日間の旅をずっと同行してくれる現地ガイドでウイジンさんという、うら若い女性。色白で小柄だが胸が大きく目鼻立ちがくっきりしたとびきりの美人。にっこり微笑まれると吸い込まれそうになる。流暢な日本語を話すから始めは日本人か日系二世かとも思ったが、聞けば生粋のウズベク人とのこと。生粋とは言っても昔から民族の出入りが激しい国だからそんな血が入り混じっているのだろう、混血は美人をつくる。これからの旅が一段と楽しくなりそうで期待が弾む。 ウイジンさんは学生時代、図書館で生け花の本を見ていたく感銘を受けた。それ以来日本に深い関心をもち、日本語学科に進んだとのこと。ウズベキスタンの首都タシケントの東洋学大学には日本語学科があって大変な人気学科になっているのだ。彼女は卒業後九州の熊本にホームスティというかたちで留学しているから日本語の流暢なのもうなずけるが、ときどき面白い表現が飛び出して笑わせられる。サマルカンドのビビハニム・モスクの屋根が真っ青な釉薬タイルで覆われているのを説明するのに、「屋根はツルです」と言うのには一同爆笑。「それはツルツルでしょう」と教えられて頭を掻いていた。彼女は日本語の二つ重ねの形容詞が苦手のようでピカピカが「ピカです」、フカフカが「フカです」になってしまうから面白い。 今回の旅はシルクロード上の古都と遺跡を巡るというものだが、ウズベキスタンの観光産業としての開発はまだこれからというところ。われわれツアー客が泊まれるホテルも限られているし、サービスも悪い。なにしろ飛行機2機分、250人近い日本人が一挙に観光地を回るのだから、どこへ行っても日本人だらけ、ホテルは日本人で満員という情況を呈した。こまったのはホテルの受け入れ態勢の不備である。「この国のホテルは予約をとっていても平気でオーバーブッキングするから安心できません」と添乗員が言う。泊まれるかどうかはそのホテルに着いてみるまでわからない。そうなれば早くホテルに着いて部屋を抑える方が勝ちというわけでやたらに先を急ぐ。 サマルカンドでは、ここだけは部屋数が足りないので、単身者は二人一部屋で願いますということになった。私は内科の先生とウマがあったのでその先生と同室を申し込んだ。ところが黄色ズボンの長老が承知せず、どうしてもくじ引きにしてくれと言って譲らない。たったの四人なのにくじ引きとは異なものながら仕方が無い。この長老はちょっと変ったところがあるようで、3人組の内の女性、Tさん、Yさんの評判が悪い。時々いやらしい冗談を言われるとのことで「変態ジジイ」の称号を拝命していた。くじの結果、なんとこの長老と一緒になってしまった。旅は道連れ、これも縁の内。風評に反して極めて温厚な紳士ぶりであった。翌朝早速Tさん、Yさんが「何もなかった?」と心配そうに聞いてきた。産婦人科の先生はスケベというのが世間での定評だが、いい年をした男二人で何かあるわけもないだろう。そう言う三人組こそ不思議なのだ。 ある日ふと気づいたのだが、部屋割のとき彼女ら三人で一つの鍵を受け取っている。部屋代を浮かせるためかも知れないが、三人の関係は一体どうなっているのだろうか。しかし、詮索は止めよう。この三人組とは仲良くなって一緒に食事のテーブルを囲むことが多かった。酒のつまみを提供してくれたり、お酌をしてくれたりと何かと面倒見がいい。しかしパパ、パパと呼ばれるのには閉口した。不可解な三人組はそもそも何者なのかと思ったが、だんだん聞いてみると女性二人はともに独身のオフイスレディ、しかもTさんは某製薬会社の社長室長とのことでビックリ。男性も未婚で大阪の建設会社で現場監督をやっている。両手に花とはうらやましい。みんな独身貴族として優雅な人生を楽しんでいるようだ。 さて、ウズベキスタンについてだが、タリバンの支配していたアフガニスタンの北隣に接するというのに国情も国民性もまったく対照的でその性格は温厚かつ楽天的なのだ。道で写真を撮っていたら、自分たちも撮ってくれとニコニコして寄ってくる。国民の大多数がスンニ派のイスラム教徒だが、ちゃんと1日5回のお祈りを欠かさない“本物”のイスラム教徒は全体の20%程度しかいない。“偽者”のイスラム教徒は酒も飲めば豚肉も食べる。日本の自称仏教徒と同じである。ウイジンさんも豚肉は大好きだそうだ。一行の中に、サウジアラビアに行く予定だったがアチラは旅行者といえども酒は一滴も認められないと聞き、急遽切り変えたという人がいた。ウズベクは1991年のソ連崩壊までソ連の支配下にあったので、いまだにその影響が色濃く残っていている。ソ連支配の時代、レジスタンス運動はあったのかと聞いたら、まったく無かったと言うからその温順ぶりがうかがえる。10年間近くもソ連と戦ったアフガニスタンとは大違いで、いまでも6%いるロシア人との関係はきわめて友好的。ウイジンさんの助手として同乗したアシスタントはニコライ君という陽気な独身のロシア青年だった。「キャン ユー スピーク イングリッシュ?」と聞いてきたが、私が英語を話せれば楽しい会話ができたことだろう。このニコライ君の酒の強いこと強いこと、それと腰をかがめてステップを切るコサック踊りの巧みさには舌を巻いた。 古都ブハラではナディール・ディヴァンキ・メドレセ(メドレセはイスラム教の学校)という古い建物の中庭で夕食を食べながら民族舞踊を兼ねたファッションショーを見物した。この国の伝統的な衣装を現代風にアレンジしたアラビア調のデザインの華麗さ大胆さにみとれ、音楽と踊りの素晴らしさに酔いしれた。ウズベク人のデザインセンス、音楽センスはなかなかのものだ。ウズベクの演歌とも歌謡曲ともいうべきミュージックテープを4本買って帰ったが、やや哀調を帯びた旋律が聴いていて飽きない。 ウイジンさんは日本語を勉強したおかげで、現在旅行社からいい待遇を受けている。日本の旅行社との打合せで年1回程度は東京に来るとのこと。私は帰国してからウズベキスタンのサインのことで教えてもらいたくて彼女に質問状を出した。この国の文字の綴りが難しいから、彼女が書いてくれた住所のコピーをわざわざ貼って出したのに2ヶ月あまりして返送されてきてしまった。郵便体勢が不備なのだろう。今度東京に来たときはTさん、Yさんと一緒に歓待しますから是非連絡下さいと書いておいたのに、はなはだ残念である。彼女は日本との定期便が就航して「これからは益々忙しくなりそうです」と張り切っていたのに、今回の戦争によって当分は観光どころではなくなった。Tさんの情報によるとニコライ君からメールで海外からの旅行客がパッタリとまってしまいこたえているとのこと。いまはあの国の人々も不安で、忍耐の多い日々を送っている。同情を禁じえない。ウイジンさんとの再会もいつの日になることやら。 |