インタビュー

泉 麻人氏
街の記憶はネオンと看板が目印
泉 麻人氏
1956年、東京都生まれ。慶應大学を卒業後、雑誌編集者を経て84年にフリーのコラムニストとして独立。雑誌、テレビなど幅広い分野で活躍中。主な著書に「B級ニュース図鑑」「会社観光」「東京自転車日記」「家庭の事情」などがある。

──泉さんは街でみかけた不思議な看板のことをエッセイなどでよく書いていらっしゃいますね、ネオンの印象は?

 僕のネオンの原風景というのは昭和30年代の銀座4丁目の森永の地球儀ネオン、不二家のフランスキャラメルの看板も印象的でした。物心つくころですね。街灯が暗かったので、闇の中に浮き上がっているフランスキャラメルのぼやけたような赤や青の色使いが結構好きでしたね。
 95年の初めにピョンヤンに行ったんですが、ホテルから見た街の風景が往年の東京を思い起こさせて、懐かしい気分にさせてくれました。もっとも一般の広告ではなくて、キムジョンイルなどの政治的なものでしたが。
 それから、記憶にあるのは映画の中のネオン。これは結構多い。成瀬己喜男監督の映画で、五反田のキャバレーの水車かなんかのネオン。垢抜けないんだけれど、凝ったつくりのものが好きですね。ギャング映画で、屋上のネオンがチカチカ点滅している裏で戦うシーンなんかもよく覚えているな。ジーッという音も。
 「かっこいいな」と思ったのは、大学生の終わりごろ70年代の終わりから80年代初めぐらいの、アメリカのダイナースにあったような「バドワイザー」や「クワーズ」の小さなチューブ・タイプのネオン、「bea」なんていうのもいいな。これなんかは今も見かけますよね。その後はネオンよりもモールや他のものにライトアップのスタイルが変わってきたんでしょうね。ネオンが今のビルに合わなくなってきている。
 ネオンといえば15年ぐらい前に宣弘社の小林利雄さん、今は会長さんだと思うんですが、取材したことがあるんです。懐かしのヒーロー番組「月光仮面」の取材をするために企画製作した宣弘社を訪ねたら、当時社長だった小林さんが自ら応じてくれたんです。  小林さんは昭和23年12月、東京駅降車口のドーム下に、スポンサーの武田薬品のネームを入れた巨大なクリスマスツリーを設置したんですよ。終戦後3年でかなり過激な試みですよね。小林さんはいわゆる二代目の社長さんで、戦争で中国からの復員後、24、5歳で社長業を引き継いたんです。次々に国鉄各駅の広告を手がけ『駅広告の小林』の名前は定着していく。そのうちネオン広告に興味をもって、アメリカへ行ってノウハウを学んでくる。30年代初めから数寄屋橋を中心にマツダビルに東芝の水銀灯照明、電光ニュースを入れ込んだソニーのネオンサイン、丸善石油の巨大ネオン、そして、不二家のフランスキャラメルの看板もそう。僕の記憶に残る数寄屋橋交差点付近から銀座を望んだ夜景の殆どは小林氏が作ったんですね。

──アイデアに富んだ方だったんですね。

 めぼしい場所をみつけると、家主のところに直接乗り込んでいくそうです。屋上に看板を建てさせてくれ、10万でどうかと、えっそんな高く自分のビルの上が売れるの?と、そんな時代だったんですね。
 昔も今も高い建物にあるネオンや看板は一種の目印。僕はある種キッチュなものが好きですね。最近では銀座の「そのこショップ」の鈴木その子の看板なんか好きですね。シンプルな物ばかりになったからかえって、そんなものが楽しい。大江戸線の新御徒町駅の交差点角のヒサヤ大黒堂の「ぢ」。真っ赤な色で巨大な一文字だけでこれだけインパクトのあるものは他にないですね。あと合羽橋のニイミ。問屋街の玄関口のような所に、堂々と立ちはだかっている巨大なコックさん、これなんか好みですね。JRの浜松町駅と新橋駅の間にある線路沿いの「玉の肌石鹸」も白銀色のネオンが古風なかんじでいいですね。千駄ヶ谷と代々木の間、新宿御苑側にある「性病科」の赤いネオンなんていうのも街の目印。
 30、40年前まであった連れ込み旅館のさかさくらげや、近所にあったラーメン屋のラーメンの周りにネオンがついたものなんか、夜の街にああいったネオンってなにか暖かみがありますよね。
 初めて香港に行ったとき、洪水のようなネオンに圧倒されました。漢字のゴテッとした固まりが、夜の街にあれだけ大量にあれば元気になってくる。最近の日本のビルはシンプルすぎて冷たい。ネオンて、ある種の垢抜けなさが魅力ですね。温もりがある。往年のネオン的ムードが好きですね。
 お台場の観覧車は色合いも綺麗で、ああいった使い方もいいな。

──デザインや施工する側がイニシアチブをとるということですか?

 マクドナルドの看板を10年ぐらい撮っているんですが、軽井沢のマックの看板は真っ白で、テラス形式、ロスアンジェルスにはブルー地とグリーン地のマックがある。マクドナルドは京都の景観問題が発端でしょうが、発想を転換していますよ。川越のサンクスには木彫りの看板、小施には暖簾が下がった銀行がある。クライアントにとっては宣伝手段はなんでもいいんですね、インターネットでもサインでも、効果があれば。
 企業は以前は10年単位で物事を考えていたのが、今はせいぜい3年単位。そういうところも、ネオンサインが今人気がない理由なのでは。ネオンは企業のロゴマークなどには強いですが、商品広告には弱いですよね。他のメディアとの組み合わせを考えてもいいんじゃないでしょうか。広告主が発想できない事を提案することで、つくる側が主導的な仕事ができるようになるんです。そのためにはまず教育。ネオンサインについてトータルで専門に教えるところが必要ですね。
 クライアントを充分に分析して、最適なメディアを選んで提案していく力がなければ生き残れないと思います。今一番求められているのはマーケティング力でしょう。

──観覧車は長崎や名古屋、最近では松山とあちこちにできていますね。

 たまに夜行列車に乗ったときに、真っ暗な中に遠くのパチンコ屋のネオンが光っているのもレトロで味わいのあるもの。垢抜けないけれどそういうものって、ある程度復活してくるのではないかな。

──懐かしさがまた、ニューウェーブになればいいな。今日はお忙しいところありがとうございました。

 泉さんの記憶にインプットされているたくさんの事象の中で“ネオン”をキーワードに入力したら次から次から街の情景が匂いまで伴って出てくる。そんなあっと言う間の1時間でした。「パソコンはあんまり・・・」とおっしゃる泉さんですが、泉さん御自身がコンピュータなんだと納得しました。

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