ほっとコーナー

味自慢・酒自慢 [さくら肉・深川「みの家」]
関東甲信越支部 広報委員IY
 

 東京は下町の味自慢として馬肉の老舗を紹介いたします。本当は「駒形どぜう」と思ったのですが、干支に合わせ元気に頑張ろうということにしました。
 「蹴飛ばし」「さくら肉」とも呼ばれる馬肉は長野や熊本が有名です。東京で旨い馬など育てているわけはありませんが、旨い食わせ方をしていると言えばよろしいでしょうか。
 東京は下町深川のビルの谷間に構える古い木造の一軒家で、軒上にはコレクター垂涎とおぼしき木看板があります。これが明治から続く馬刺しと鍋の老舗「みの家」です。池波正太郎の著書「東京旨い店」にも載るこの店は、下町情緒を伝える貴重な存在です。
 玄関で下足札をもらい座敷に上がります。あまり広くはない間口に対し奥行きの長い広間には2列の細長いテーブルが並びます。この眺めは「駒形どぜう」と似ていて、これが昔の下町というやつかと妙に納得するのです。
 さてオーダーですが、まず馬刺しです。これは全く臭みもくせもない淡白であっさりした味わいと思いがけない柔らかさに驚かされます。そしてメインは味噌仕立ての鍋ですが、馬肉はロースとヒレとありどちらも脂肪が少なくあっさりしていて柔らかい。淡白ながら味わいのある肉と割下がぴったり合って並の牛や豚では到底敵わないのです。
 この馬肉の秘密は「みの家」のこだわりにあるようです。某情報によれば、水分が多い馬肉の特徴を考えて生肉のみを使用。調理場で肉の筋を丁寧に取り除き、3週間以上寝かせて熟成させるという。これによって、クセのある馬肉が驚くほど柔らかくなり、あっさりとした味わいに変身するとのこと。
 江戸っ子を真似て板わさと玉子焼きに熱燗をオーダーし料理を待とうと思いきや、あっという間に全部出てきてしまいました。頼み方ってやつがあるんでしょうか?一皿の量は少なめなので肉のお代わりは必須で、とにかく無我夢中で腹一杯食べたらさっさと帰るのが江戸っ子の流儀なのかも知れません。
 とにかく下足番の親父さんからオバちゃんたちのサービスまで含め、ああこれが江戸っ子の世界なのかなと感慨に浸ることになりました。

趣味あれこれ
ヘラブナ釣り始末記
中国支部 (有)近彩社  藤原義樹
 父の手ほどきで釣りに親しんで50年以上、父の年数を合わせると110年、ついでに母と家内の分も合計すると我が家の釣歴は150年以上になる。
 若い頃に転勤であちこちに住んだので、各地のヘラブナ釣りの技法を学んだ。マブナは底釣りがほとんどでミミズなどでも釣れるがヘラブナは中層釣りが主流で、エサはウドン、マッシュポテトのいわゆる団子で釣る。
 家族のためには台所に立たないのに、エサのウドンの味付けには3日もかける人がいた。その人の奥さんは、休日の度に家を空ける亭主の釣道具を、いつかドブに投げ込むのが夢だと語っていた。だれかが味の素と砂糖を混ぜると卓効があるというのを聞いて、人間じゃあるまいし、ばかなことを、──と思ったが、やっぱりこっそり真似をした。
 有料の釣堀(釣り池)で腕を磨き、技を盗み、自然の湖沼で野ベラと向かい合う。
 あわてものが釣堀に、養殖金魚が満杯のバケツをひっくり返したことがあった。ゴウゴウの不平の声の中、池主は釣れた金魚一尾につきいくらの料金割戻しを余儀なくされた。フナと信じて引っ張った糸の先に、真っ赤なリボンの如きものがひらひらと上ってくると、一瞬ぎょっとする。
 孔雀の羽根でウキを自作することから、水槽にフナとコイを飼って就餌の仕方のちがいを観察研究し、──要するに熱中した。
 道具にこだわるのはどんな趣味にも共通であって、よく隣り合わせた初老の紳士はどこかの社長さんで、よだれの出そうないい道具を使っていた。だが、道具と腕前は必ずしも比例しないのも世の習い。日暮れまで端然と座して動かず(釣れないから動かない)、ひとり悠然と瞑想にふけるがごとく、風格ただようその姿は忘れがたい。
 ヘラ師も年をとるとマブナに帰るといわれる。素朴な魚信(あたり)がなつかしくなるらしい。ヘラブナ釣りはすこしばかり理屈っぽいところがある釣りである。
 釣ったフナはフラシと呼ばれる魚篭に入れて、終わると放してやる。私は名人だからフラシも持参しない。釣ったそばからそっと水に戻す。フナ用のハリはもどりと呼ばれるアゴがない。慣れると魚体に手を触れずにハリだけを持って無傷で戻してやれる。繊細優美なウキ、アゴのないヘラバリなど古人の知恵の結晶と感嘆する。
 名人が神仏の域に達するとハリをつけないで糸の先にダンゴをつけ、ただウキの動きを楽しむという。駆け出し名人の私にはさすがにアホらしくてそれは出来なかった。
 私のヘラの師匠は自分では釣らないで、傍に座り込んだまま黙って私のウキを見ていた。ずいぶん長いことそうやっていて、やおら立ち上がると、「いまいち、だな」一言つぶやいて立ち去るのが常だった。
 おだやかな水面に優雅に上下動するウキは魚信の字の通り。魚との会話そのものである、と私はその辺まではサトっている。
 ところが近年、大異変が起った。
 ブラックバス、ブルーギルと称する外来の魚が放流されて池やダムの様相が一変した。それを狙ってルアー釣りが流行し始めた。不埒にも疑似餌を引っ張って魚を引っ掛ける。
 無粋なエンジンと音とともにカッコいい若者が乗ったボートが走り回り、キンキラのニセ餌をドボンドボンと投げ込み始める。大波にウキは右往左往して、とてもじゃないが釣りにならない。ヘラ師は(例外を除いて)紳士であるから、罵詈雑言をあびせたりはしないが、胸中は(例外なく)魚雷を放って彼らを撃沈したい思いにかられている。
 釣道具屋の主人に愚痴を言ったら、「時代の流れだものね」
 そりゃ、あんたは道具さえ売れればいいだろうさ。
 嘆いていたら、今度は腰痛である。
 箸より重いものを持っては三歩も歩けなくなると、じっとしていても座り続けられない。山歩きもゴルフも駄目。食卓にたどり着くのさえやっとの思いである。
 釣りならば這ってでも行きたいが、まさか腹這いでは釣れない。第一ルアー釣りの兄ちゃんたちに笑われるのがクヤしい。
 かくて竿は古び、ハリは錆び、孔雀の羽根は花瓶の飾りと化した。
 それでも目を閉じると水面が見えてくる。ゆっくりと上下する優雅なウキの動き。その先端に時々イトトンボがとまる。風が吹きわたる。再びは帰ってこない「時」を湖面に無数のさざ波として刻み込んで、かなたの森へと抜けていく。

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