私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.52
     九州支部 (有)日栄電装 松隈徳雄

松隈徳雄さん 八幡市(現北九州市八幡東区)のネオン工事会社の入口に“社員募集”の張り紙がしてあるのを路面電車の窓から見つけ、翌日面接に行ったのが私のネオン屋稼業の始まりでした。
 昭和35年の冬のこと、私18歳の時でした。
 面白そうな仕事だと思って飛び込んだ世界のつもりですが、第一日目に雪の中で作業する先輩の竹梯子を押さえておく任務は辛かったですね。梯子を押さえる手に雪が降り積もって凍え、何度も息を吹きかけながら一日中押さえ続けた時でも、不思議にもう辞めてしまおうという気は起こりませんでした。現在のようにアルミの伸縮梯子とか組立式型枠足場など無い頃で、竹梯子、縄梯子が主流の時代でした。従って当時のネオン屋さんは小柄で身軽な人が多かったように思います。
 移動手段はたいていの所へは電車、バス、汽車で。大きな工事は社長の運転するライトバンで送りつけられ、夕方社長が迎えに来てくれるまで帰れない、という状況でした。
 そんな時代に修業し鍛えられて、ふと気がついた時、高校に行かなければならない自分に気がつきました。父親のいない(戦死)自分は働きながら高校を卒業しなければいけないのです。会社は働きながら高校に通うことを嫌いますので、独立という形をとり、夜学に通いました。
 卒業後は本格的にネオン屋に専念し、ネオン組合に加入させて貰ったのは29歳の時でした。遠くの同業者の方々と知り合いになれて、遠方工事の際には力を貸して頂きながらネオン屋を続けて来ることができました。
 42年間を振り返りながらペンを執っていますと、いろいろな事が思い出されますが、楽しかった事しか思い出せないのです。
 仕事では常に変更がつきまといます。どんなに綿密に打ち合わせをしていても、現場の状況により変更はあるものです。変更工事は殆ど業者の負担ですから、変更工事をしたくない為にお客さんを言いくるめようとする人がいます。
 こんな事がありました。連日連夜の作業もあと一息で完了という時、見回りに来たお客様がマークを1メーター右へ寄せろと言い出したのです。直径4メーターのネオン管の着管まで済んだマークをです。
 さて、困ったなと思いましたが、咄嗟に「はい、分かりました」と、答えてしまいました。簡単にマークの移動を引き受けた私を皆の目は抗議していました。移動しなくてよいように話を納めてくれると思っていたらしいのです。そのまま皆の目を無視して作業を続けていると、2時間ぐらいしてまた見回りに来たお客様
「ネオン屋さん、移動はどの位かかりますか」
私「今夜一晩かかります」
お客様「1メーター右へ寄せるとどうですか」
私「アンバランスになっておかしいです」
お客様「なぜ先にそれを言わなかった」
私「ご希望を一度受け入れた後、ご説明するつもりでした」
お客様「わかった、それではこのままでよろしい」
 そんな事があってから、我が社ではお客様の希望に対しては絶対に反論しないようにしております。何故なら、お客様も人の子ですし、お客様は神様だからです。
 それにつけても昨今の不況風、良い話はないのでしょうか。協力し合い、励まし合ってきた同業者が業界を去っていくのを見るのは、とても寂しいですね。組合員の数があまり減らないうちに景気回復してください、小泉さん、廣邊さん、誰でもいい・・・。

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