私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.53
ネオンに魅せられて 出会いに生かされ
     四国支部 (株)徳島ネオン 本久 昇

本久 昇さん 夕暮れ時、空が暗くなりかけた頃、待ってましたとばかりに色とりどりのネオンが街を照らし夜空に乱舞する。人々に明日の活力、ロマンチックな華やかさを振りまく景気のバロメーターでもある、そんなネオンが大きく変革し一つずつ街から消えようとしている。
 私は土佐の生まれで、ざっくばらんな飾りっけはどうも苦手なタイプですが、しかし流行を求めて大阪に就職しました。
 若さもあり、華やかな大阪は気に入りました。全くネオンとは縁もないサラリーマンで、そんな私がネオン業界に興味を持ったのは二十歳の頃でした。ネオンとの出会い、それは道頓堀のネオンサイン、川面に写し出されたネオンを見るたびに魅力を感じさせられました。将来の人生設計もまだ出来ていない平凡なサラリーマンには豪華で可憐な色とりどりのネオンが夜空を走り回る様は素晴らしく、「ユニークなデザイン」「目を見張るような大きい物」お店の顔として人々を釘付けにする光景にすっかり魅せられ、ある会社に「私を雇ってくれませんか・・・」と、飛び込みました。
 すると、そこの社長さんに「こんな危険な命がけの仕事はやめておけ!」と、一言われました。高いところに上がって仕事ができるようなタイプには見えなかったのではないかと思います。しばらく悩みましたが、やはり人々を勇気づけるネオン業界にはとても興味がありました。
 そんな中、偶然にも高松の「香川ネオン電業社」の宮武社長が父の友人であった為、私は即、香川ネオンに入社することが出来ました。二十四の頃です。現場、加工、企画、営業と慣れていきながら、二〜三年経ったある日、社長から「徳島営業所を開設する」と言われ、私が徳島営業所の所長に任命されました。それからが始まりです。
 一軒の倉庫を改装して「営業所長一人・工務一人・女子事務員一人」二階は現場の職人がたびたび出張で出て来ては泊まるようになり、夕暮れともなると友人も交えて現場の苦労話をしながら一杯飲むのがとても楽しみなひと時でした。その時友人が作詩してくれた「よさこいもっちゃん節」(名前が本久なので)で、盛り上がりました。
 〜酒とネオン街が死ぬほど好きで、金があきれて寄りつかぬ、もっちゃんコイ〜〜〜〜と。 しかし、営業の方は大変でした。来る日も来る日も仕事はさっぱりありません。右を向いても左を向いても知り合いはいません。昼は建築現場へ飛び込んで、夜はネオン街を歩いて回り、お店に入って営業をする毎日でした、ある日現場調査に行き、ビルの足場に上っているところを、ある現場監督が「誰な!黙って上がっているのは!!」と下から怒鳴られて、この日以来三十年この現場監督さんとご縁があり、いまだにご贔屓に成っているからお客様とは本当にありがたいものです。
 やっと営業所として慣れた頃、また節目を迎える事となりました。社長より「自分で独立して会社を設立してはどうか?」と話があり、不安や悩みもありましたが思い切って頑張ってみる事としました。
 昭和五十五年一月、三十八歳の時です。とはいってもゼロからの出発です。資金の件で銀行へ行くと「担保はありますか?」「保証人は?」と言われ、悩みは絶えませんでした。
 そんな中、また不思議な出会いがありました。ある晩一人で飲みに行った先で、そこのおかみさんがある人に「この人はとてもいい人だから資金を貸してあげてください」と私の事を紹介してくださいました。何とその方は銀行の支店長で「夜の店に信用のある人間は信用できる」と言って下さり、それがご縁で会社設立にいたりました。その支店長さんとのおつき合いも長く続きましたが、残念なことに五十二歳で亡くなりました。
 独立してから約五年くらいで営業所が変わるようになり、その頃から鉄骨加工、板金加工、プラスティック加工、看板製作、社員も一人二人と増やせるようになりましたが、昭和五十八年よりオイルショックで銀座のネオンも自粛する等の不景気が続きましたが、二〜三年経った頃からだんだんと街にネオンが増えていくようになり、景気も上向いてきたような気がします。
 ある時こんな事がありました。短い工事納期の間に三ヵ所、大きな現場を持つ事になり、その間に雨にたたられて危機的状況に追い込まれました。一日二十四時間分刻みの仕事の中で現場の職人と寝起きを共にし、仮眠、徹夜の繰り返しで、食事をしながらのミーティング、役割分担、材料の手配。その時昔の友人が助っ人に来てくれ、無事、三ヵ所の現場を完了し、一ヵ所のネオン点灯式の確認後、落成式の時には一人逃げ出してホテルで寝たものでした。この時程人のありがたさ、つきあいの尊さを感じた事はありません。
 独立してやっとお客様に徳島ネオンを知って頂いた頃、異業種組合へ県の造成地ができるので、応募してみたらどうかというお話があり、今までゼロからの出発で借家暮らしばかりしてきたので、一か八か応募した結果、百社の中二十三社の中へ残る事ができ、平成五年一月、工業団地へ進出することが出来ました。
 今まで以上に製造業にとっては、抜群の立地条件で製作加工、流通面においては一段とレベルアップになりましたが、景気は一段と厳しくこれから先が正念場になると思います。
 屋外広告ネオン業界に入ってから三十五年。一人っ子だった私に母が「なぜこんな危険な職業を選んだんや!」母は私を理髪師にさせたかったそうですが、好きで選んだ道。
 高知に生まれ、高知で就職し徳島で三十三年、人と人との出会いにより、夜を彩るネオンに魅せられ、コツコツと歩んできた道。今ネオンが世の中の大不況に一つ一つ消えようとしている。街を照らし、夜空で乱舞する色とりどりのネオン、人々に活力と勇気「癒しの心」を与えてくれるネオン。
 会社設立二十周年が過ぎ、これから先の厳しい不透明な業界でありますが、これからも人々に元気を与え、二十一世紀を伝承していく魅力ある照明、街の活性化ネオン、都市景観と共に新しくマッチしたデザインを研究しながらコツコツと取り組んでみたいと思います。

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