私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.55
「マンゴ」て何?からはや22年
     関西支部 (株)日本電装 道祖秀幸

道祖秀幸さん 私は、昭和56年5月日本電装に入社しました。それまでは大学卒業後、建築設計事務所でお世話になり、その後はゼネコンでお世話になり、建築一筋で来たわけですが、当時建築家に憧れていたからです。なんと言ってもカッコ良く、女性にもてて、鉛筆一本でお金が稼げる。また雑学も身に付きますし、海外もスポンサー付きで行けるなと思っていたものでした。そんなことで一級建築士の資格も取り、これからは一人前と自分で納得し、将来の姿を想像していました。
 しかし、建築の分野も当然組織で構成されていて、各分野のエキスパート達の集合で建築物が完成されるわけです。そうした経験の積み重ねによって改良、進歩により、洗練された建築がこの世に生まれると信じ、40歳になれば独立し、今までの経験を生かし設計事務所を設立してカッコの良い人生を生きていこうと考えていました。しかし、建築家と呼ばれる人達を冷静に考えますと、そういった方々は相当なセンスを持ち、当然芸術的な要素もあり、膨大な知識も持っているわけです。ふと我を考えた時、そんなセンスがあるのかなぁと、悶々とした日々をおくっていました。しかし建築はやはり好きだったので、そういう要素はこれから身につけていけばいいだろう、焦らず頑張れば何とかなるだろうと思っていました。
 そんな折り、父が一時体調を悪くし、「会社に来ないか」と言われて、長男ということもあって今の会社に入社しました。私が33歳、前出の昭和56年のことです。
 ビジュアルサイン、FL電飾サインはある程度知識はありましたが、ネオンサインについてはまったくの素人で、親父、協力会社の人達に、特に古田電装の現会長には大変お世話になり、懇切丁寧に教えていただきました。
 最初はまず現場からということで、一応現場監督という肩書きではありますが、内容は伴わない、全くの素人でした。
「マンゴ」って何?「ハチスケ」って何?「吊り足場にしようか」など建築用語にはない言葉ばかりでした。特に電気設備についてはほとんど無知で、いちから勉強しなくてはならず、また足場も丸太足場でとても恐ろしくて見ていられないものでした。安全第一という概念から当時ビビッてしまい、足場が組み上がるまで現場にずっーと付きっきりで、もし落下したらどうしようと、流石の私も胃はキリキリと痛み、現場に行くたびに体調を崩したものでした。
 昼は現場、夕方からは会社で図面、見積、工程表と一日で二日分の働きをする毎日でした。図面も意匠図も得意でしたが、ネオン配線図には参りました。特に点滅配線が相当ややこしくて、電気容量、点滅方法、点滅時間を考えて「口」でパッパッパ、ダラダラーパッ、全点全消といった具合で、感覚で配線図を設計するわけで、それをクライアントにやはり「口」と分割意匠図とその時間差を説明し、納得してもらうのですから、そりゃあ大変でした。
 そうして完成した時点灯試験をするんですが、その時が何とも言えない気持ちで不安感と期待感が入り混ざった、このドキドキ感。いよいよ最後のクライマックス。点灯して思った通りの流れのパターンが表現出来た。この時は最高の気分でやり遂げた満足感で、協力会社のみなさんと共に乾杯!と祝杯をあげたものでした。
 今では電子点滅器でコンピュータ化され、映像で表現できるようになり、またネオントランスもインバータ化され、もっとすごい表情のネオンサインが可能になった訳ですが、年々ネオンサインそのものが少なくなってきて非常に残念で、寂しい思いがします。
 平成11年5月に当時会長であった親父が亡くなり、実質的に自分が会社を運営することになりました。それまでは仕事のことだけを考えていればよかったのですが、会社のこと、お得意様のこと、営業の引き継ぎ等でみなさまにはご迷惑をおかけしましたが、皆様のご理解で順調に機動するようになりました。また若い社員たちも非常にがんばっていてくれています。今では、この業界で仕事ができることに大変満足しております。
 現在は景気が悪くデフレで受注価格が非常に安く、大変な時期になっていますがこれも一つの刺激材として考え、ムダのない施工方法、VEの考え方、新製品の開発、デザインで勝負等いろんな角度からもう一度見直して考えていかなければならないと思っています。
 業界の情報は NEOSが非常に参考になり、今後も組合員の皆様とともに連携プレーを行い、頑張っていきますのでご指導よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。

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