クロードネオンの歴史を顧みる |
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この座談会は9月10日、協会事務局において開催された。ネオン業界を代表するこの会社の歴史を知ることは、とりもなおさず業界の歴史をたどることでもある。そんな気持ちから企画したものである。 時間の制限もあり十分とはいえないが、一般に知られていない話も多々あり興味深い内容となった。
小野:本日はご足労頂きありがとうございます。現在業界では全国でたくさんの会社がクロードグループということで仕事をされています。クロード出身という方も大勢いらっしゃるわけですが、いわゆるネオン業界のクロード人脈というものがどのように形成されてきたのか、またどのような広がりを持っているのか。今まではなかなか知る機会がありませんでしたが、座談会ということで企画をしました。時間もかぎられていますので主に戦後に限定して話をしていただきたいと思います。出席者については、もっと適任者がいらっしゃるかもしれませんが、理事の方々を中心に、広報委員で選択をさせていただきました。 朝倉:クロードネオンの歴史をかえりみるということで、今日は大先輩ばかりでちょっとかたくなっておりますが、お手柔らかに(笑)。まず喜多河会長からお願いします。 喜多河:年長者やから話の口火を切れというということやと思います。私個人のことで恐縮ですが、昭和23年に大阪クロードに入社しまして、いきなり排気技術を習得しろと言われました。 戦後日本でネオンを始めた頃は、ネオン管は大阪で、あるいは東京で作って担いで回るわけにはいきませんので、クロード系の会社で工場を作り出した。クロード式のネオンは電極をちょっと見てクロード製か他社製かよく分かったそうです。 朝倉:ありがとうございました。岩井会長と小川会長、堺さんも当時大阪クロードに入社ということで。では岩井会長の方からお願いします。 岩井:私は大阪クロードへ入社したのは実は一番古いんです。その後1年半か2年遅れて、喜多河さんがいきなり排気室に入ってこられましてね、元のえらいさんの息子さんやといって。僕らいつも排気室に入っていくと影山謹吾さんによう怒られました。これはクロード独特の排気の技術やから他のもんはあかん、ということで。その前後小川さんが入ってきましてね、堺さんは大阪時代はまだ後で入社されておると思います。 名古屋クロードへ行くようになったのは、現在の中部支部長のアイセイ社の深澤社長のお父さんと大阪クロードの当時、西羅保男が社長でして、そこは名古屋出張所のような格好で東京のクロードがやっていたんですが、戦後うまく営業できなかったということでアイセイ社と提携して、大阪クロードの牛山松美というネオン工場の人とともかく工場を作らなとなったわけです。名古屋は当時ネオン管を曲げる所は3軒ぐらいしかなかったように聞いています。どうもうまいこといかんと。それで、名古屋が本店の松坂屋百貨店さんの工事の応援に私が行ったんですが、頭から赤いペンキかぶされましてね。「もうこんな名古屋には来とうない」と、帰ってその翌年、会社の命令ですわ「あんた行って、名古屋をちゃんと立ち上げてこい」と、ところが当時は今と同じで、さっぱりあきませんねん。4、5人の従業員に給料払おうと思っても当時の大阪クロードの会計は金もくれん、お前らで工面せいと。まあ、船尾政喜という人がその時の西羅保男の下にいて、その人の家が大阪クロードのすぐ近くでしたんで、泣きついたりして、ようやく名古屋クロードも時代の波に乗り一本立ちできるようになってきました。一番うれしかったんは当時クロードで鉄筋コンクリートのビルを建てられたのは岡山の岡山電飾兼岡山クロードの野田十郎さんのところで、次に名古屋が計画してやった…。 朝倉:それは何年ですか。 岩井:私が名古屋へ行ったのは昭和24年で、喜多河さんとは1年しか一緒におりません。ビルを建てたのが、それから10年後。やれやれと思っていましたら、これがえらいことになりました。東京クロードは売上げは仰山あったんですよ、ところがいろんな事故もあったり、問題も出てきまして、会社が大赤字になってしまった。ちょうどその時に小川さんが僕より1年早く大平恵一さんと東京クロードへこられた。それで、がんばってましたが当時のお金で、毎年何百万の赤字を出した。何とかせいと、私に白羽の矢が当たったんですよ。当時取締役専務を若造のくせにやらしていただいていたんですが、割合に成績あげさしてもらってましたんでね、こいつにやらしといたら便利やろうと。一つ条件つけたんです。「わしは両方の専務として行きますが、一切任してください」と。だけど、頭二つあって、また西羅社長はよう怒るんですよ。もう僕らみたいな小僧っ子は、人前でも平気でやられますからね、これではたまらんと、精神的につかれますわね。 朝倉:それは昭和33年のことですか。 岩井:36年ですね、小川さんが35年ですか。 記憶しているだけでも百何件の負債があった。そこでどう返すか…。従業員の給料は遅配と欠配。小川さんも欠配と遅配うけてるはずなんですね。僕が来てからは、まず従業員の給料だけは絶対に払わないかんと。 朝倉:いやわかりました。苦しい時代をがんばられて今があるわけですから。 岩井:その後日本の経済ようなって、ネオン工事もどんどん増えてきたと。ちょうど両方合いマッチした結果、名古屋クロード、東京クロード、大阪クロード、北海道クロードと各地にできたというわけです。当時仙台も立ち上げるためにいろんな人を、野沢君や名古屋からも近藤君を行かしたりしたんです。えらいのはバブル以降ですね、このままで仙台をおいといても、売上はもう伸びることももう絶対無い、むしろ赤字に突入している。これはもうたたんだ方がいいと、皆さんに迷惑かける前にやろう、というので現在に至っています。 朝倉:ありがとうございました。きびしい時代から、経済が高度成長に乗ったということもありますので、両方の会社、がんばっていただきたいと思います。それでは大阪クロードから入社して東京へということでナックの会長の小川さんお願いします。 小川:先ほどから出ているようにルーツはそういうことなんですが、個人的には1960年ですから昭和35年ですかね、大阪から東京へ参りました。私の上司に大平さんという方がおられて、デザインの方で卓越したものを持っておられました。私も一応大阪で二科会に出品したり、絵の世界へ行こうかとも思いましたが、そんなに簡単なもんじゃありません。私が美術学校で専攻したのはグラフィックデザインですが、同時に電気関係も勉強したのでネオンサインにぴったりではないかと、93年までクロードのほうでご厄介になりました。私の人生のほとんどを東京で(笑)ということでございました。その時は景気が上向きでしたから。たまたま私も縁があってこういう状態になりましたが、一にも二にもクロードネオンでお世話になったということは誇りに思っております。独立して来年で丸10年になります。 朝倉:大阪クロードに入ったのは何年でございますか? 小川:26年ですね。 朝倉:喜多河会長から2年ぐらいあとですね。その前が岩井会長ですね。それでは堺さんが、大阪クロードから独立なさった経緯などを、よろしくお願いします。 堺:27年入社です。今の小川さんとは同年なんですが1年遊んだもんですから。まあ、同年代のライバルであり仲間がたくさんいたんですよ。私は、最初に喜多河副会長の工場で3年仕込まれて、当時の西羅社長が「名古屋へ行って1週間手伝ってこい」と、それで手ぶらで行って、帰ってきたのが10年後でしたから…(笑)。岩井さんに捕まったわけですね。(皆笑)岩井さんの邸宅のはなれに小屋がありまして、そこにお世話になっている間にだんだん名古屋で仕事をやる気になってきまして。名古屋では“岩井イズム”って言うんですが、スパルタの厳しい教育といじめ(笑)にあいまして、そのパワーを我々は身をもって感じて来たわけです。私は39年の12月で辞めましたが、その間の名古屋のパワーは、毎年の株主の配当は、少なくて100%、多い時は150%というとんでもない儲け方されてたんです。もちろんわれわれが土台になったと思うとるんですけど、東京の小川さんたちの給料出すために働いたわけじゃないんですから…(笑)。ほとんどの仕事を外注に出さずに社内で作って、取り付けて、一貫作業を社内でこなしてた。第1工場でネオン作って、第2工場で鉄骨を作って、第3工場で板金加工から塗装をこなして、それを工事部が管理しながら現場もすべてやったと、外注なしの工事ですからいくらやっても次から次と終わらない。逆説的にいえば、いかに儲かったかということだと思うんですけどね。30年代、僕らはそれを名古屋だけに限らずいわゆる東京クロードの営業の消化をするために、夜を日についで、1日大体3時間くらいの睡眠でですね、岩井式の作業ということでやってきたわけですから、こんなに儲けてどうするんやろな、いうぐらいで、全社員が一丸となってやれたと思うんです。まあ危険なリスクを犯しながら、結果的にやりきったということなんです。 朝倉:ありがとうございます。私は46年にこの業界に入ったので、すぐオイルショック、またバブルがはじけた時もかなり厳しいですが、今クロードという名前がついてる会社が東京、大阪、名古屋、広島、岡山、北海道と6社になるわけですね。ナックさんは、ニュー・アドバタイジング・クロードという意味もあるそうですね。北海道クロードは創立が昭和37年。当時のクラブ工芸さんと大阪クロードさんの出資会社ということで、初代社長で西羅さんという、豪快なすごい方だと聞いておりますが、私が4代目という形になります。クロードネオン電気だったんですが、昭和49年に「ネオン電気」をはずしました。大阪と東京の創立は何年になるんでしょうか。 喜多河:大阪クロードは設立が昭和4年(1929年)7月6日ですね。地名のついてる東京とか名古屋とか大阪とかはもう戦後です。戦前は東京が本店、大阪が支店のような感じですね。 朝倉:昔は台北とか平壌とか大連とか朝鮮に工場があったと聞いておりますけれども。 喜多河:台湾とか新京、奉天、大連もクロードがあったそうですけれども、それはネオンチューブ製作ではなしに販売と取り付けをやってたんです。作るのは東京と大阪です。これ技術が秘密やからね、それはもう言わんわけですわ。確かに半年、1年くらいのよそさんのネオンに比べてクロードの寿命は3倍ほど持ったと聞いてます。これはやっぱりジョージ・クロードの排気技術が優れてたからです。 小野:東京と大阪の経営の違いは如何ですか。 堺:“岩井イズム”に尽きるということです。徹底した作業管理、それが東京の旧のクロードはどういう放漫経営したのか知りませんけど、立ち直ったのは岩井さんが管理するようになり、小川さんたちが実践した結果だと思うんです。東京クロードさんの配当は知りませんが、これはもう人力ですよ。決して景気云々の問題ではない。 小野:東京と大阪で戦後スタートして、東京がおかしくなって倒産して、大阪からテコ入れで東京に来たということなんですが、東京でずっとやっていた方で、倒産前のことをご存知の方に出席していただこうと思ったんですが、見当たらないんですよね。今も仕事やっている方はいらっしゃるんですか? 小川:皆さん代が変わっていると思いますが、当時は渋谷氷川町で東京クロードではなくクロードネオンだったんです。今堺さんも言われたように全くの放漫経営でそうなったということです。 岩井:当時今井和徳さんのお父さんがクロードネオン株式会社の現場の方のおえら方やってましてね、組合で大先輩の今井さんに当時の話をお聞きしておった。僕がたまたま今井さんのお父さんより1年先に理事やってました。大先輩ですから、クロードの話を聞かせてもらって仕事も助けていただいた、というのが経緯でしてね。その後そのクロードのOBがどうなったかということになるのですが、昭和ネオンさんに一部流れていったりとか、手前の方には営業でサカイが営業の後を引き続いて、その後勝本とか、今現在うちの役員やってるんですが、名古屋から引っ張ってきてやったというのが経緯ですわ。 小川:東京システックさんにも辻政二さんがおられた。 小野:辻さんは前のクロードネオンから昭和ネオンに行って、それからうちにみえた。 岩井:終戦後立ち上げたのは大阪の今の北浜で、メンバーは数名いました。大阪の内藤さんが社長で、その後が西羅さん。大阪クロードの西羅さん中心にみんながお金出し合ったんです。先ほど堺君の方からえらい儲けたおして、こき使いやがって、という話がありましたけれども(周囲笑い)、これは確かに頑張ってもらいました。これ事実です。でも、そうではない。やはりその当時は私が中部の組合にいた時はネオン屋の数もたった8社だったのが今50何社もありますが。その8社で立ち上げた時、いつ行っても管曲げる人も遊んでましたしね。だからやっぱりこれは経済がよくなったという時期に波に乗れた。それともう一つは、確かに苦しかった、10割配当もした。これはね、資本金がわずかだったんです。今10割配当いうたら皆さん笑うかもしれませんが、10万円から平気で株式会社にできた時代ですから、全部配当しても今の金額で皆さんの給料で十分10割配当できた時代ですから、念のためその辺の誤解もないように。 うちの東京クロードの立ち上げについて、クロード系の会社の方が協力してくれて、小川さんたちも皆頑張っていただいたということが、今の東京クロードと名古屋クロードであることを申し上げときます。 朝倉:それでは最後に廣邊会長から感想を頂きたいと思います。 廣邊:昭和の初めに、いろいろなルートからネオンの技術というものが入ってきたと聞いております。私はかつて、クロードネオンの創業者である森山さんにお会いしたことがあるんです。たしか、恵比寿の森山さんの自宅か工場かと思いますが、そこに一度親父を車に乗せて行ったことがありました。私が学生の頃ですから、昭和20年代の後半です。森山さんという方はなかなかの人であるということは親父から聞かされた思い出があります。その時に、私は森山さんから声をかけられた記憶があります。 ネオン業界の歴史は80年余りになりますが、戦前から終戦直後の10年間ほどはネオンの仕事が出来ない時代がありましたが、戦前にクロードの分家みたいな人達が各地におられて、復興と共に全国的に、北は北海道から南は九州、沖縄まで、クロードの社名をつけた会社が誕生していったと思います。私の知っている先輩達は北海道の佐々木さん朝倉さん、新潟の加藤さん、大阪の福城さん、広島の福城さんそして石井さん等でありますが、すでに親から息子へそして孫へというふうに広がって、クロード系の大勢の方々が、戦後のネオン業界の発展に大きな力を発揮され、全国津々浦々にネオンをつけていったといえると思います。 現在は大阪クロードの喜多河会長が、全ネ協の副会長として、またかつては名古屋クロードの岩井会長も協会の副会長として業界のためにご努力を頂いたところであります。 今回、NEOS編集長の小野さんが「クロードネオンの歴史を顧みる」座談会を開催されたことは我国を代表するクロードネオンの誕生から今日までのご苦労を識ることによって、今日ネオン業界がかかえている諸問題にいかに対処すべきかを、我々になんらかの示唆を頂くことが出来るのではないかと期待されてのことと思います。 朝倉:本日はつたない司会でしたが、大先輩たちに助けていただきありがとうございました。 |