新春エッセー
 ネオン業界のプロジェクトX 
全ネ協理事 小 野 博 之
 最近NHKテレビのシリーズ番組「プロジェクトX」が人気を呼んでいる。新製品や新技術の開発に取り組んだ人々の成功体験をドキュメント風につづったものだが、いままで世の中に存在しなかったものを誕生させるための失敗の積み重ねや努力の総量に圧倒され、感動させられる。
 考えてみれば、わがネオン業界も黎明期、果敢なチャレンジャーたちの苦闘があって今日があるわけだ。そんなヒーローをこの番組に是非登場させたいものだが、いまや彼らがネオンに夢を抱いた時代からもう3世代にもなろうとしている。業界の長老格となる当協会廣邊会長や喜多河副会長のお父上が初代に当たるわけだからテレビ登場はおろか、当時の話を伝え聞くことさえ不可能ないにしえのこととなってしまった。
 もっとも、協会発刊の「日本のネオン」には初期開拓時代の苦労談やエピソードがいくつも紹介されている。しかし、今やこの本を所有する会員も少ないのではなかろうか。ここではネオンサインを業として取り組んだ人々と時代背景を「日本のネオン」と最近私が入手した資料によって誌上「プロジェクトX・ネオン編」として構成したい。
 「日本のネオン」によれば、国産ネオンのはじまりは大正15年(1926年)7月、東京・日比谷公園に東京市の納涼大会が行われた際、その入り口を飾ったもので、東芝の前身である東京電気会社が研究と製作にあたったとされる。大正7年(1918年)の銀座・谷沢カバン店の店頭を飾った輸入ネオンの第1号から8年後のことである。企業としてのネオン製造会社が誕生するのはさらに数年後の昭和2年から4年にかけてのことになる。ジョルジュ・クロードのネオン発明から17〜19年を経過しているものの、国産ネオンの実験段階としての誕生からすればほんの数年後のこと。その数年の間にネオンの技術が売り物として通用するだけの品質を獲得するまでに育ったということだから、そのスピードは相当のものだ。
 その間のエピソードとして「日本のネオン」は現在では考えられない初歩的な試行錯誤について紹介している。昭和2年5月、東京市電気研究所において「電気と波展覧会」が開催され、屋上に「デンキと波テンランカイ」の文字をネオンで点灯しようとした。全長で電圧が60000Vにもなり逓信省では法規上認められないというし、市電側も危険だからと躊躇し紆余曲折の結果、半分の30000Vなら黙認ということになり、「デンキと波」だけを点灯、「テンランカイ」は倉庫にしまいこまれたとのこと。なんのことはない、半分ずつ30000vのトランスを並列につなげればいいものを当時電気工学の相当の技術者がそろっていながら誰も気がつかなかったというから不思議である。大雨に際し漏電しないかとか雹が降ったら管が割れないかとか、あるいは人間が手で触れて死ぬことがないかとか、今では笑い話になるようなことが真剣に議論され、実験もされた。
 企業化では昭和2年3月の東京ネオンが最も早いのではなかろうか。これは廣邊泰蔵氏が大正11年に創業した日本真空管製作所を改組したもので、平尾亮五、橋本茂助らとともにネオン事業に専念した結果、昭和4年(1929年)3月御大典を記念して愛宕山NHK放送塔に「奉祝」の二文字をネオンで飾ることに成功している。同じ頃、小曽根寛二なる人物がユニライトラボラトリーという会社を起こしてネオンサインの製造を始めた。また、ジョルジュ・クロードの可調式漏洩変圧器で放電管に給電する特許を譲り受けたクロードネオン電気は、内藤光次、喜多河徳造、森山富蔵らによって昭和4年(1929年)8月芝浦に事業を開始している。
 NEOS前号(冬号vol.80)で座談会「クロードネオンの歴史を顧みる」を企画したが、この座談会の席に喜多河副会長が大変な資料を持ってこられた。それは昭和5年6月作成のタイプ打ちしたクロードネオン電気株式会社「第2期上期決算報告書」と同5月1日現在の「株主名簿」に加え、何枚かの株券のコピーと昭和4年12月15日付の株主各位に対する「営業状況説明書」等である。これらの資料は喜多河さんご自身が所有していたものではなく、喜多河さんの父上、喜多河徳造初代社長の兄さんの実家から最近偶然みつかったものとのことだった。この資料を仔細に眺めると、これからネオン業を企業体として営もうとした人々の熱い息遣いが聞こえてくるような気がする。
 資料によればクロードネオン電気株式会社(以下クロード社)が産声をあげたのは昭和4年で、設立登記は7月6日。資本金は60万円で牛山正成氏を筆頭に26名の株主で構成されている。この60万円の資本金が時価に換算していくらになるのか、計算してみて驚いた。物価上昇率2000倍として、なんと12億円にもなるのだ。もっとも2000倍とした物価上昇率が適正かどうかという問題がある。たとえば、ものさしとしてよく用いられる米の価格だが、農林水産庁発表のデータによれば昭和元年の東京精米市場の年平均価格は玄米60キロで約15円、平成10年産米の政府売り渡し価格は同17,646円(消費税込)で、約1170倍。しかし朝日新聞社発行の「値段の風俗史」によれば昭和5年、東京における白米の10キロ当たり標準小売価格は2円30銭。現在は銘柄によってかなりの幅があるが、4,500円として1957倍。銀行の初任給が昭和4年で70円、現在は20万円というところだからその差は2857倍。ラーメン1杯は昭和5年10銭、現在500円で5000倍。一口に物価といっても対象とするものによって相当の幅があるから難しいが2000倍は決して過大ではなく、むしろ控えめにみての数字である。12億円といえば現在なら上場企業にも匹敵する規模となる。ちなみに昭和2年設立の東京ネオンは資本金15万円だから時価換算3億円で、これも現在のネオン会社レベルの資本金とは比べ物にならない。試行錯誤の開発段階ということでそれ相応の資金が必要だったのだろう。
 さて、クロード社の創業時持株は初代社長の喜多河徳造が1600株、監査役の森山富蔵が800株を取得している。株主26名の平均持株数461株は2000倍の時価換算で4,610万円、当時立派な家が1軒建ったことだろう。さらに筆頭株主である常務の牛山正成氏にいたっては総資本金の半分に当たる6000株の出資だから時価で6億円という大金をつぎ込んでいることになる。このことを喜多河さんに訊いたところ牛山氏個人が6000株を出資したわけではなく、牛山氏に賛同した複数の人たちが出資したものを一本化して牛山氏の名義で登録したもので、いわば共同出資グループの代表が牛山氏ということであった。株主名簿に前出の喜多河徳造氏のお兄さんの名前が見当たらないわけも同様で、喜多河徳造氏がお兄さんの出資金を預かった上で自分の持ち株名義にしているとのこと。それでなければ平均でも家一件分という大金の出資は不可能だろう。つまり実質的な株主の数は26人ではなく、その何倍にもなるわけだ。それだけネオンサイン事業に対する社会の並々ならぬ関心と意気込みが伝わってくるようだ。
 しかし、たかがネオン業の設立にどうしてこんな大金が必要だったのか。喜多河さんの推察ではひとえに仏クロード社の特許権取得金額がべらぼうに高かったからだろうとのこと。第2期決算報告書に添えられた財産目録には特許権及新案権として20万1,900円が計上されているが、これは資本金の3分の1にあたる。また、技術指導で来日したアメリカ人2名の滞在費負担もかさんだとのこと。滞在期間半年の契約だったが経済的な負担が大きすぎて2ヵ月で帰国願ったという。
 決算書によればクロード社は第1期において2万1,439円69銭の赤字を計上している。赤字の理由の一つとして「弊社が営業開始を宣言するや不徳極まる特許権盗用者は遂に資本喰い、売逃げの苦策に出て市場は渾然として乱調子におちいり従来の定価の3分の1見当まで売り崩すに到った様な次第であります。よって弊社は慎重審議の結果断然決意し新聞雑誌上の広告宣伝を極力制限して実物宣伝の方法をとり模倣業者に肉薄したのであります。此処に大なる犠牲のあった事はご了解を願わねばなりません。」とある。過当競争、ダンピングの問題が早くもこの時期から持ち上がっているのだ。ネオン特許係争問題が起きたのは昭和7年春のことであるが、その種は早くも創業時に発生していることがわかる。
 株主名簿には100株を出資する影山謹吾という人物名があるが、この人は16年間アメリカで生活し果物の運送業をやっていたが、将来を見越してネオンの技術を習得して帰国、大阪クロードの工場長を務めていたそうだ。喜多河氏は入社当時、もう高齢であった景山工場長から排気の手ほどきを受けている。
 実は前号の座談会でも出てくるが、私の会社に以前辻政二さんというクロード出身の方がおられた。当社在籍は昭和46年から50年までの4年間。明治33年のお生まれだから当社入社時はもう71歳。この稿の執筆にあたり念のため保管してあった経歴書を調べたらクロードネオン入社がなんと昭和4年の7月、この会社の創業と同時の入社なのだ。離職が昭和34年の会社倒産時だから倒産前の会社の全歴史ともに人生を歩んだことになる。もっとも昭和12年9月、日支事変の勃発とともに会社は閉鎖されているから、それから昭和20年の4月まで完工社という会社を自営している。この人は「営業の神様」と称されたほど業界では名を知られた人物だが、他社の得意先を持っていくことでも勇名をはせ、「辻斬り」というあだ名のほうがもっぱら有名だったらしい。
 その辻さんから昔の営業の仕方について話を聞かされたが、何しろ世間ではネオンとはどんなものか知らない人のほうが多い時代、常にトランスとネオン管を持ち歩いて客の前で点けて見せたそうだ。トランス1台は今のものでもかなりの重さだから、車もない当時、12キロ近いトランスを持ち歩くには相当の体力を要したことだろう。それで鍛えたせいか、辻さんは小柄なのに頑健そのもの。当社でも毎日重そうな大型カバンを持って朝から出歩いておられた。毎昼の食事はぶ厚いステーキと決まっていて、同行するときはいつもご相伴に預かったものだ。
 亡くなられてもう20年近くにもなるが、奥様がまだ健在で今でも年賀状のやり取りをしている。
 ネオン業界と不可分の関係にある広告代理店は昭和初期どのような状況にあったのだろうか。この業界の雄、電通の創業は明治34年(1901)で、ネオン業の草創期より四半世紀早い。しかし、このころの広告代理店は新聞広告の扱いがほとんどで、それも黒枠広告といわれる政財界人の死亡広告が電通の得意分野であった。「おかげで電通に勤めている、というと『あの御不幸の電通ですか』といわれたものです」(富永令一)(「電通」田原総一郎著より)それどころか広告業は賤業とされ、「押し売り・保険・広告お断り」などという貼り紙をしているところが多かった。そんな業界の地位を高め、電通を世界有数の巨大広告会社にした人物、吉田秀雄がこの会社に入社したのが昭和3年なのだ。ネオン会社は造るだけではなく、自らスポンサーに直接売り込みを諮らなければならなかった。
 「日本のネオン」は昭和2〜3年頃アメリカに技術者を派遣してネオン業を始めた人物がかなりいるようであるが、これらの人々はすべて秘密裏にやっていたので明らかでないと述べているが、この時代、ネオン業界の黎明期に新事業に野心を燃やす冒険者が続々と名乗りを上げたのだろう。現在の花形産業である自動車産業はトヨタの前身、豊田自動織機製作所が昭和5年(1930年)にやっと小型ガソリンエンジンの研究に着手することになり、その後昭和9年に日産が小型ダットサンの量産化を開始している時代背景を考えるとネオンは当時の最先端をいく未来型の産業分野であったのだろう。クロードネオンの設立に当たっては広く政財界人にも趣意書で参加を呼びかけ、かなりの反響もあったようだ。ただし、時の経過とともに政財界の著名人も冷静な判断をするようになり、大企業がネオンの分野に参入することはなかった。そこにネオン産業の限界があり、またこの業界が今日まで生き抜いてきた特質があるのだろう。おりしもネオン企業が続々と産声を上げた昭和4年、ニューヨークの株式大暴落とともに世界経済の大恐慌時代が始まり業界のおかれた情況は決して容易なものではなかった。しかし、クロードネオンは第2期に入り早くも黒字に転換、「弊社の前途は非常に広大なる発展の余地があるのであります」と記している。同じく不況下にある現在、われわれが学ぶべきは苦難をものともせず大いなる大志を抱いてまい進した先覚者たちの精神とバイタリティーではなかろうか。
 わたしのリポートはこれで終わるが、願わくばほかに当時の資料をお持ちの方があり、この「プロジェクトX」の続編に引き継ぐことができれば、業界としても歴史を記録する上で収穫となるのではなかろうか。

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