特別寄稿

 小津映画で発見したこと 
理事 小野博之

小津映画を再評価する

 昨年は日本映画の世界的名匠小津安二郎の生誕100周年に当たるとのことで、年末から正月にかけて小津作品のテレビ放映が盛んだった。小津監督は1903年12月に生まれ、63年12月に60歳で亡くなっている。その間の監督作品は1927年(昭和2年)から1962年(昭和37年)までの36年間で計54本。内プリントが現存する作品は37本でそのすべてがNHKのBS2で放送された。そんなことで、この正月休みはそれらの作品を追いかけるのに忙しかった。初期のものは無声映画でその後白黒トーキー、カラー、ワイドと映画史をたどるほどの幅があるが、そのうち私が映画館で観たのはカラー化以降。そんなすでに観た作品も40年も経過すればほとんど忘れていて全作品を新鮮な気持ちで鑑賞することができた。
 世間では小津作品の評価が高いが、私はそれほどには思っていなかった。しかし今回はようやくその理由がわかったような気がした。それは私がそれ相応に年を重ねたからかもしれない。彼の作品のほとんどは今で言うホームドラマの範疇で、家庭における夫婦の関係、親と子の関係をテーマにしているが、そのきめ細かな描写の中に感情のひだが濃密に写しこまれ胸を打つ。小津作品の題名を借りれば“お茶漬けの味”なのだ。
 もっとも、今回初めて無声映画の作品を何本か観たが、これが私のイメージにある小津作品とはかなり肌合いが違っていたので驚いた。「和製喧嘩友達」(昭和4年)にしても「淑女と髭」(昭和6年)にしてもギャグとペーソスをたっぷりと盛り込んだ喜劇仕立ての映画なのだ。「大人の見る絵本 生まれてはみたけれど」(昭和7年)の場合は大人の社会に対する批判は盛り込んであるものの、子供の純な行動をユーモア感覚で描いたほほえましい作品となっている。小津監督は生涯独身で家庭も子供も持ったことがないのに夫婦や親子の機微をよく捕らえ、子供に対する観察眼も見事。そこがやはり名監督の名監督たる所以なのだろう。

懐かしい質素な社会

 私がとくに共感を持って観たのは昭和20年代後半から30年代前半の作品だが、それは私の青春と時代が重なるからに他ならない。高度成長期直前のまだ質素な社会であった。そのころの時代背景もそうだが、もう忘れていた生活描写が面白い。お櫃、足踏みミシン、火鉢、ねこコタツなどの生活小道具が懐かしい。隣近所で呼び出してもらう電話や、緊急時の電報もそういえば昔はどこの家もそうだったなと記憶がよみがえる。「早春」ではビールの栓を抜くときに栓抜きでコンコンと王冠を叩くシーンが出てきたが昔はみんなそうしていたものだ。電気冷蔵庫のない時代、水で冷やしただけのビールは生ぬるく泡が多い。王冠を叩くと泡が出にくくなるというのがその理由と聞いたが、いまとなればそんな迷信をよくもみんな本気にしていたものだ。「お茶漬けの味」では海外に出張する主人公をみんなが羽田空港で見送るシーンがあるが、テラスでいっせいに手を振る風景が懐かしい。あのころはパチンコが既に大衆娯楽の花形だったと見えてパチンコ台で玉をはじくシーンがよく登場する。玉を一個ずつ穴にねじ込む式に、あわただしい現代とは一味違う時間の流れが感じられる。

意外なサインの効用

 小津安二郎は東京、深川の生まれで、そのせいか映画の舞台はそのほとんどが東京である。題名に東京がついたものも有名な「東京物語」以外に「東京の合唱」「東京の女」「東京の宿」「東京暮色」と多い。映画の背景に出てくる東京の町並みはほとんどがロケによる実写で、あのころの風景が偲ばれる。それと同時にネオンサインや看板がよく映されているのも小津映画の特徴である。「彼岸花」(昭和33年)では銀座のシーンでビクターの大きなネオン塔が晴れやかに出てきた。そんなシーンを拾っていけば銀座のネオン史になるのではなかろうか。そればかりか、彼の映画ではしばしば場面転換のたびにサインが出てくる。つまり、物語の舞台が変わったことをサインで示しているのだ。

   
  

 その代表的な作品は「東京暮色」(昭和32年)だ。原節子、有馬稲子の二人の姉妹と笠智衆の父親だけの片親家族の物語である。母親は男と駆け落ちし、今はまた別の男と麻雀屋をやっている。妹の有馬稲子は不良仲間と付き合って妊娠しているが結局は捨てられ、そのために自殺する。この映画に登場する看板だが、笠智衆が立ち寄る池袋の小料理屋「お多福」、鰻屋「う」、出て行った母親、山田五十鈴が経営する五反田の麻雀屋「壽荘」、有馬稲子が付き合う男のアパート「相生荘」、彼女が腹の子供を下ろす産婦人科「笠原医院」、それに待ちぼうけを食わされるバー「Gerbera」、喫茶店「エトアール」、ラーメン屋「珍々軒」とかぞえただけでも八つの看板が場面の転換とともに入れ替わり立ち代り登場するのだ。面白いことに大きく「う」とだけ書かれた鰻屋のスタンド看板が「秋日和」にも登場するし、「珍々軒」という屋号の店が出て来る作品をほかに二つ見つけた。小津安二郎という監督はサインに特別のこだわりを持っているようである。

不二ネオンの石柱

 小津映画の中でも最も有名で評価の高いのが「東京物語」(昭和28年)だが、この映画の中で私は実に興味深い発見をした。東京で生活している息子や娘を訪ねて尾道から出てきた老夫婦の笠智衆と東山千栄子が、自分たちの生活に忙しくろくろく相手にもなってくれない子供たちに接し、早々に帰っていくことになる。両親の世話で困った長女の杉村春子は妙案を立て二人を熱海に送り出すが、老夫婦は宿で落ち着けず翌日帰ってきてしまう。迷惑気味な長女に二人はそれぞれにその夜泊めてもらう知人を求めて家を出る。

「東京物語」より お寺の門前で時間つぶしをする二人と石柱の格子塀

 そのとき上野公園で時間つぶしをするが、そのシーンで私はハッとした。二人が腰を下ろして一休みしたのは大きなお寺の門前だが、御影石の角柱が並んだ格子塀には一本一本寄進者の名前が彫り込んである。ほんの一瞬流れた風景の格子の一本にネオンと言う文字が読み取れるではないか。漢字の名前が並ぶ中そこだけカタカナだからよく目に付く。しかし、ネオンの上がちょうど画面の切れ目に当たっていてよく読めない。その頃上野に近く会社を構えていた同業者とはいったいどこなのだろうか。関心が深まり、さらに録画したものを何度も繰り返して見た。すると意外なことに今まで切れていた上端が少し多く見えるときがある。さらに静止画像にしてよくよく見れば、ネオンの上に不二という漢字が判読できる。不二ネオンは戦後、業界に名が聞こえた会社である。今はもうないが、そんな会社が小津作品の中に名を残していようとは驚きだった。この会社は根岸にあったが、そこから近い上野の寺の檀家として石塀の造作に寄進したことが容易に想像される。しかし、そんな事実を映画の中で発見しようとは、私にとってはまさに天文マニアが広い夜空に新彗星を発見したような思いであった。
 不二ネオンという会社を私が直接知るわけもないが、亡き父が昔同社の川瀬伊代次社長と昵懇の仲だったことで、関東ネオン業協同組合の広報誌、1990年春季号に「亡き川瀬伊代次氏の侠気に捧ぐ」という一文を寄せている。同氏はきっぷのいい親分肌の人で事業もうまいが遊びも派手だったようだ。「ネオン号」という競馬馬のオーナーで一着をとったこともある。エッセイには根岸神社の総代役として祭礼を取り仕切ったときの宴席の記念写真が添えてあるが、氏を囲んで時のネオン業界のそうそうたる顔ぶれが揃い壮観である。川瀬社長のご子息が事業を継いだものの、その後他業界に移り、不二ネオンは途絶えたようだ。
 「東京物語」を以前にもテレビで二度ほど観ているがこのシーンにはまったく気がつかなかった。今回図らずも目に入ったのは、最近人気の薄型テレビのおかげである。昨年、今まで見ていた28インチのテレビを43インチの壁掛式プラズマテレビに買い換えたのだが、その効果は絶大で映画館のスクリーンをやや小さくした程度の迫力は味わえる。画像の鮮明さにおいても格段の違いで今までのテレビでは見えなかったものが見えてきたというわけだ。
 ところで小津監督はこのシーンを意識して撮ったのだろうかという疑問を抱いた。画面の隅々まで神経を研ぎ澄まして撮る監督だから不二ネオンの石柱は当然意識の上にあっただろう。私にはむしろ、不二ネオンの社名を見せるためにこのカットを入れたのではないかと思われて仕方がない。ネオンサインを画面に取り込むことに熱心な小津監督のこと、名のあるネオン会社ぐらいは知っていただろう。そればかりか川瀬社長ともかなりの面識があったのではなかろうか。
 というのは、その当時日本画の天才肌の画家、横山操がこの会社に身を寄せていたからだ。横山は大正10年の生まれでこの映画の制作された昭和28年当時32歳。すでに世に名を知られる存在であったが、どういういきさつか不二ネオンでネオンサインのデザインをしていた。銀座名物の初代森永地球儀ネオンも彼のデザインといわれる。この知名度の高い画家と小津監督が旧知の間柄で、その関係から川瀬社長との縁もできたのではないかと推察することは可能ではなかろうか。そう考えてみると小津監督はこのシーンを不二ネオンの名を出したいがために撮ったとしても不思議ではない。というのも、このシーンはかなり唐突に思われるからだ。場面転換でお寺を認識させたいのなら、一般的には寺の建物を見せるわけだが、この映画では人物も配さずいきなり石塀を撮っているからだ。不思議なシーンといわざるを得ない。思うにこれはひいきにする不二ネオンに対するエールであり、今となってみれば不況から脱し得ないわれわれネオン業界に対するメッセージではなかろうか。今度機会があったら是非上野でこの寺を探し出して実物を拝見したいものだ。
 会員の方々にはこの映画を観ることを是非お勧めしたい。


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