私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.60
“トーチカみたいな管”を作ってどなられる
     九州支部 東亜ネオン産業(株) 新濱 聰二郎

新濱 聰二郎さん 私が学校を卒業した時代は非常に就職難の時代でした。それでも私は皆様が色々お世話してくださる先が気に入らず、決めかねていた折り、その中でも電気会社が1社あり、やっとそこへ就職する事になりました。しかし、設計を希望していた私は配属された部署(工事部)に馴染めず、半年で退社。その後、今でいうアルバイトのような事をしていた時、電気工事店からうちに来ないかとの話がありました。電気工事が嫌で辞めたはずが、経験もあるし、多少の手伝いは出来るだろう、長くいる気もないし、という軽い気持ちから「暫くの間お世話になります」と言って勤める事になりました。
 それが3ヵ月も経った頃、そこの社長から「君の性格は分かった。ある会社に紹介しようと思っている。その会社はネオンを作っている会社だ」と言われました。今まで思ってもみなかった業種でしたが、直感的に『これからの仕事だ』とピンとくるものがあり、今までどこを紹介されても乗り気ではなかった私が早速お願いし、住み込み見習いとして勤務することになりました。
 この会社が当時ネオンの工事を請け負う傍ら、九州一円にネオン管を卸していた九州ネオン電機(株)で、現中田社長のお祖父様が社長の時代です。これが私とネオンのお付き合いの始まりでした。
 この頃は、戦後やっとネオンが点き出した頃で、資材もまともに無かった時代です。この会社では数多くの貴重な体験をさせていただきました。当時のネオン工場の様子や作業、忘れないうちに記憶を辿りながら少し書かせていただきます。
 まずはネオン管の洗浄です。長い木桶に硫酸を薄めた液を作り、その中に汚れたままの透明管をしばらく浸し、後で真水で洗い流し、良く乾かしてから使用します。
 蛍光管も自社製品で、透明管に蛍光体を塗りこれも自作のガス炉で焼くのですが、温度の廻りが悪い上、当時のガスは出が良くなったり悪くなったりで一夜もかけっ放しにしておくと、その日によって違いが出来、焼きが浅かったり、仕上がってなかったり、下の方が溶けてぐにゃぐにゃに変形して使い物にならなかったりで大変でした。電極も銅板を手巻きで巻く作業からの手作りでした。排気・ガス入れは今もほとんど変わっていないようです。この仕事、理論的にはすぐ理解できたのですが、やはりネオン管の曲げが一番苦労しました。ネオン管の極付作業で管を焼いていると肝心の所に火がいっていないので焼けず、持っている手の部分のネオン管や電極ばかりが熱くなり気がついたら指先が火傷で腫れている事が何度もありました。やっと曲げが出来るようになったある日の事、風邪をひいていた為、息を吸ってはいけない所で息を吸ってしまい、中でガラスがくっつき、曲げる部分でガラスの柱が出来てしまった事がありました。どうにか修正しようと試みましたが、無理でした。仕方なく良く焼いて割れないようにそのまま曲げておきました。その日はたまたま社長が排気室に入っておられ、その管を持って出てこられました。そして、「こんなトーチカみたいな管、排気にかけたら割れてしまうぞ」と怒鳴られました。私がつい「良く焼いてありますから割れません」と言うと、「何〜ぃ。割れたらどないするのや。頭かち割るぞ!」と言われましたが、言葉と裏腹に怒られている感じがしない、そんな社長でした。暫くして排気室からその管を持って出てこられ、「新濱、割れんかったが、この管極付け直せ。これではお客に渡す訳にはいかない」と言葉は荒々しいものの顔は笑っておられました。今も脳裏に焼き付いています。社長は大変な人物の方でした。たいへん可愛がってもいただきましたし、この社長ならついていけると思っていましたが、家庭の事情もあり、誘惑もあって2年でこの会社を後にする事になりました。この会社では諸先輩方にも大変お世話になり、またご指導いただいた事もとても感謝いたしております。
 さて、次の就職先ですが、その頃はネオン管の職人さんが少なかった為、福岡でも2、3の話はあったのですが、社長にすまないという気持ちもあり、出来るだけ遠くで関係のない所をと考え、鹿児島に行く事にしました。鹿児島の会社に就職したものの、そこの機械は古い上、随分長いこと倉庫の片隅に放置されていた物で、分解清掃し、改造して使えるようにしたのですが、仕事がありません。遊んでいる日が多いのです。私は支給していただいている給料では、会社は引き合わないと思い、暇な時は営業に出ますと申し出たのですが会社は了解してくれませんでした。退屈と給料だけ貰うわびしさで耐えられない毎日でした。
 そして6ヵ月を過ぎた頃、熊本のネオン会社が鹿児島に支店を出すという事で、そこの社長から人を介してお誘いがありました。このままではどうにもならないと思い、誘いを受け入れる事にして、退職を申し出たのですが、なかなか受け入れられず、1ヵ月を要しました。しかし、鹿児島支店に勤務するようになって間もなくの頃、熊本は会長サイドで、鹿児島は社長サイドで新しい会社を興し運営するという事になり、また話が進む内に社長より「私は会長に就くので社長になって欲しい」と言われ、とんでもないと思いましたが、とにかく説得され社長という肩書きをいただく事になりました。話が決まると会長は自分で書類を作成し、資本金として積むお金も無いのに1ヵ月後には会社の登記を済ませていました。
 それからは今までの7ヵ月とは大違いで、昼は営業、夜は設計・積算、決まればネオン管の製作、現場管理、車の免許を持っているのは私だけだったので、車の運転と一人何役もこなし、何とか順調にいっていました。会長は元台湾総督府にいらしたとかで、力は5馬力、頭は切れるし文章を書かせれば内容も文字もピカ一。世の中の表も裏もそして、法律にも精通していて、私はこの人から多くの事を学びました。そういう人ですから、金遣いも少々派手でした。それが原因という訳では無いのですが、当時高額の物品税がかかっていて、その滞納がたまり差し押さえされ、営業が成り立たなくなって3年で廃業となりました。
 その後は一人で映画関係の仕事をし、3年間資金稼ぎに没頭しました。その頃映画の全盛時代でしたが、丁度九州にもテレビの放映が始まり、少々資金不足ではありましたが、宮崎にネオン会社を立ち上げました。それが今日現在ある東亜ネオン産業株式会社です。会社設立後も紆余曲折ありましたが、その度に先輩や同業者他社の方、またお客様に支えられ、今日に至りました事、感謝致しております。会社設立後のエピソードは紙面の都合もあると思いますので、またの機会にさせていただきます。

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