特別報告

 

ニューヨーク・オーランド視察
壮大な都市再生計画

ニューヨーク42丁目開発公社訪問記
  事務局長 加藤保弥


 世紀末の一時期、いかがわしいショウとポルノビジネスで殷賑を極めたタイムズスケアー周辺が、近年見違えるばかりの健全な街に蘇ったという話は、この街を訪れるたびに断片的に聞かされていたが、今回の視察旅行でこの都市再生の裏には周到で壮大な長期計画に基づいた関係者の数十年にわたる努力があったことを知り、改めて都市計画の重要性とニューヨーク市民の力強さを再認識させられた。
 以下、この計画の中心になって推進してきた42丁目開発公社担当者からつぶさに状況を聴取した内容をご報告する。


1. 訪問日時:2004年4月12日(月) 10:15~11:45
2. 訪問先:ニューヨーク42丁目開発公社(42nd Street Development Project)
3. 先方説明者:広報部長ロビン・F. シャーマン氏(Robin F. Sherman, Director, Community Relations)

計画策定までの経緯
 19世紀のニューヨーク、この一角は住宅地と商業地が重なり合って発展してきた。
 1890年代になると、不動産価格が割安であること地下鉄の便がよいことなどから徐々にエンタテイメント産業が盛んとなり、1893年のアメリカ劇場を皮切りに、ビクトリア、アムステルダム、リバティーなど続々と後世に名を残す劇場が建設され、1930年頃には12の代表的な劇場が集まる西欧最大の劇場集積地にまで成長した。ガーシュインやハマスタインのミュージカルを中心に、寸劇、漫才などが日夜演じられ多くの観客を集めた。世界不況後の1930年代になると次第に映画館が増え、これに伴い派手な看板、ネオンサインが掲出され、不夜城となったニューヨークはブロードウェイの名と共に近代文明の中心地としての名声をほしいままにする。
 第二次大戦後1950年代になると、所謂中産階級の人たちがニューヨークから郊外に住居を移動する傾向が強くなって、この地域は没落の時期に入る。映画は次第にアクションとポルノが中心となり、1970年頃になるとこのあたりはセックスとポルノの一大センターとして悪名を馳せることとなり、犯罪率もマンハッタン随一で、警察はその取締りに日夜忙殺される状態になった。
 ここに至って、ニューヨーク州、市当局はこの地区一帯の徹底的な浄化と再開発を決意する。まず18億ドルを投じて、民間デベロッパー、市、州3社の協力で1984年に42丁目開発計画を立ち上げる。計画は民間サイドが集めた資金力と州政府の権力をフルに使って、老朽ビル取り壊し、不良事業者立ち退き、そして区画整理を着々と行い、1984年には再開発のための入札手続を終了する。
都市再生へのいばらの道
 こうしてタイムズスケアーのほぼ南、南北方向は43丁目から40丁目まで、東西方向はおよそブロードウェイから8番街までの11エーカーの地区を対象にニューヨーク市最大の再開発事業がはじまったが、当然のこととして、政治と世論、金融グループと不動産グループ、観光産業と劇場産業などなど利害がぶつかり合い、計画は決して一直線に進んだわけではない。
 まず、420万平方フィートに及ぶ4棟の高層ビル建設計画がプルデンシャル保険とデベロッパーにより提案される一方、9つの劇場が建て直しに着手する。また地域の西側には250万平方フィートの大ショッピングセンターと750室の巨大ホテルが計画される。これらの計画は各方面に非常な波紋を巻き起こし、48件もの訴訟が提起され、裁判が1985年から90年まで継続することとなって、その間計画は停滞を余儀なくされる。結局90年になって、総体的に州に有利な結論が出され、241百万ドルの予算をかけてオフィスタワーと劇場再建計画が一旦は再出発するかに見えたが、1991年今度は不動産不況の到来で、テナントの目処が立たなくなり、開発業者、プルデンシャル保険とも腰が引けてしまう。周辺店舗の三分の二がシャッターを下ろし、残っているのはポルノ店のみといった惨状に逆戻りしてしまう。
 計画は挫折したかに見え、街が暗くなりかけたが、ニューヨークの人々はこれに屈せず、1992年新戦略をもって再び計画に立ち向かう。それは、この地区に伝統的なエンタテイメント業界の再活性化を中心に据える新たな戦略で、市当局が積極的に推進する。その一つが「24時間明るい場所」をイメージとするライティングプロジェクトである。華やかな劇場と数多くの電飾サイン、これらにホテル、遊技場、スポーツジム、さらにオフィスを組み合わせた街づくりである。この目的を達するため、公社は1993年ディズニーの新アムステルダム劇場建設資金36百万ドルのうち26百万ドルを援助する提案を行う。このような市当局の積極姿勢を背景に42丁目計画は再び前進を開始し、1996年4月1日ついにこの地区最後のポルノ劇場が閉鎖された。
現在の隆盛へ
 それ以降、開発計画の快進撃が続く。当初の4高層タワー計画のうち3棟が完成、最後の一棟も現在完成寸前となっている。
 サイト3では1998年にロイターが10万平方フィートのビルを作り、2001年には加えて74万平方フィートのロイター北米本社ビルを完成させている。サイト4では2000年1月にディズニーが店舗を出していたがオーナーのプルデンシャルがそれをボストン不動産が高値で売却した。サイト1では地下鉄の入り口にコンコードがユニークな看板を出して話題を呼んだ。サイト12では1998年9月に着工された出版社の140万平方フィートのビルが満室となり、1999年9月にはナスダックとESPN(スポーツチャンネル)の放送センターが地区最大の屋外広告サインを掲出した。サイト4では2002年にアーンストヤング会計事務所が、サイト1では2000年にアルバニー・マイヤー法律事務所が100万平方フィートのビルをそれぞれ建設した。
 劇場関係では、サイト5に1995年12月ダンス、人形劇など若者、家族向けの劇場が完成、サイト6では、1995年9月にディズニーのニューシアター、97年に新アムステルダムが完成、「ライオンキング」をロングランしている。同じくサイト5には1998年1月にフォード劇場も完成、更に8万4千平方フィートのリハーサル専用設備が完成した。知名度の低い劇団の公演にも使用されている。サイト7ではソニーも関係して20万平方フィートの13のスクリーンを持つシネマコンプレックスが完成、2002年夏にはウェスティンホテルが開業した。サイト6W、サイト10は、1997年からクリーブランドの開発業者が手がけて、一大エンタテイメントコンプレックスが誕生した。サイト8Sではレンゾピアノ設計の140万平方フィートのオフィス建設が2003年9月から始まり2007年ごろ完成の予定。サイト8N、サイト5は業者募集中の段階である。

ニューヨーク42丁目開発公社での会議風景(左)と開発地域計画図

質疑応答
(1) サイン計画は各テナントとのリース契約に当初から組み入れられる。看板のサイズ、明るさ、材質、デザインなどの審査機関としては、ニューヨーク市経済開発会社、エンパイアステート開発会社などがある。
(2) デザインのガイドラインは非常に細かく、オフィスタワー、劇場など建物によって詳細に定めてある。
(3) ポルノ規制は厳格で、学校、住宅、協会から500フィート以内でのセックスに関連する営業は禁止されている。実際この種の店は1990年代以降完全に途絶えてしまっている。
(4) この計画推進の過程で土地、建物の権利関係で政治家がらみの贈収賄事件は全く起こらなかった。
(5) 公社のスタッフは12〜14人程度で、外部に抱えている多くのコンサルタントグループを活用しながら、極めて効率的に運営している。
(6) 同様な組織としては、ペンシルバニア中央駅周辺再開発を担当するペンステーション開発公社がある。

 

Back

トップページへ戻る



2004 Copyright (c) All Japan Neon-Sign Association