私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.62
ネオン屋稼業40年 我が人生
     中国支部 (有)共同ネオン電機 枯木 守

枯木 守さん ネオン業40年の始まりは15歳の時。呉線経由の急行安芸号に乗って何も知らない東京へ働きに行ったのです。
 両親がプラットホームまで見送りにきて、投げてくれた別れのテープを持って夢をふくらませて上京しました。その時、父親が私たち二人に言ってくれた「会社では誰にでも惜しまれる人間になりなさい」との言葉を今でも想い出します。
 上京後東京ネオンに入社し、兄は営業へ私はネオン製造の方へとすすみました。一年位はネオン管をつなぐ練習をし、2年で基礎的なものが出来るようになりました。
 ある時昼食の注文を先輩方に聞き、中華そばとラーメンが同じものとは知らずに食堂に電話で注文したところ、そのことで店の人といい争ったことがあり、あの時代は先輩方のいろんな小間使いも仕事のうちの一つでした。
 寮では全日本ネオン協会の廣邊前会長のご兄弟と同室で生活を共にして、公私共々いろいろ勉強させていただいた事、今懐かしく想い出されます。
 あの時代は一人前のネオン管職人になろうとして、一生懸命にネオン管作りに励み、没頭した私の青春時代でした。
 それから後、昭和ネオンに転職して、故高村五郎社長にお世話になったのは22歳の頃でした。ちょうど東京オリンピックがあった年で、みんなで仕事を放り出して聖火を見に行った想い出もあります。
 それから何年かで退職し、転々とした後、29歳の時に広島に帰郷し、広島クロードに入社。約10年で退社し、39歳の時に独立しました。
 最初はネオン業を主にしてきました。その時は不景気のどん底でしたが、その後世の中の景気が良くなった時期もありました。
 独立して5年目で法人化して、ネオン管加工だけではだめなので、看板業全般をしなければと思い、工場を建てる準備をしてきました。
 10年目に工場を、2年後に事務所を建て、さらに4年後には社屋にシート部を作り、現在は看板業全般(ネオン管・鋼材・シート・アクリル加工等)をしております。今は娘もシートの手伝いをしております。
 今私の人生を顧みると、若い頃は先輩方にネオンの作り方を教えていただき、目で見て覚えながら、どうやったらうまくなれるか先輩方の手伝いをしながら、一生懸命覚えてきた青春でした。辛いとき、苦しいとき、また愉しい事いろいろありましたが、いろんな人に出会い、またご迷惑をかけたこともあります。お世話になった皆様方、取引先、従業員、友達に恵まれ、今までやってこられたのだと思います。
 今年は会社設立20周年、来年は私も還暦にあたり、一層前向きな気持ちで頑張っていきたいと思います。
 これからも皆様のご指導ご鞭撻を、宜しくお願いいたします。

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