昭和の一桁、子供の時の想い出はこの頃からです。
私の親父は大正の末期に渡米し、シアトルで木材商としてアメリカ杉の輸入を業としていましたが、そこでネオンというものに出会い、同じ志の人々と一緒に苦労して、ネオンの技術を日本へ持ち帰りました。当時のシアトルは日本人も多く、また材木の集散地として町も活気があったそうです。今でこそ日本でも珍しくないことですが、年中アイスクリーム屋があり、ストーブを囲んでのどが渇くと車を出し主人が買いに行く、こんな父の話を興味深く聞いた事など思い出します。
出張で家に居る事が少なかった父でしたが、たまに家に居る日曜日にもじっとしている時はなく、火鉢、堀ゴタツ、総べて自分の手で電化にしていました。信楽焼の火鉢を横にして、ようやく電気コードが入る程の穴を明けて、電気を通すのです。炭火と違い熱をコントロール出来るので、兄弟競ってこの火鉢の上に乗ったものです。また料理が得意で親戚の間でも評判がよく、自分の気がむけばチョッキ姿でお手伝いさんを助手につぎつぎとケーキ迄作り、その手際は玄人はだしでした。
当時、ネオンはまだ珍しく近所のオバさん達から「お父さんの会社は何と云う会社」と聞かれる度に、胸張って「クロードネオン云うてネオンサイン作っている会社や」と答えておりました。
草創期のクロードは本店と営業所があり、東京、大阪が本店、新京(今の長春)は満州クロード、京城クロード、台北クロード、大連クロードと次々営業所を増していったようです。本店は、東京、大阪しかなく他は総て地名を取った営業所でした。
父は東京と大阪に席があり、毎月2、3度上京していました。当時国鉄(現在JR)は特急つばめ、ふじ、さくらとあり、父がよく乗っていたつばめは大阪―東京間を8時間半程で走っていました。忙しい父が帰京したときは、顔を見るだけでも嬉しかったのですが、土産にはシュガードーナツ、菓子パンなど、やはりこの時代から銀座には大阪に無いものがあり、子供達を喜ばせてくれました。
昭和11年、過労の為父は倒れました。座敷で寝ていた父の枕辺には母、叔父、兄と座っていましたが、医者は徐に「急性肺炎です。絶対安静にして下さい。」と告げました。あの重苦しい空気は子供心に応え、今も脳裏に残っています。良い薬も乏しい時代でしたが、幸いなことに一命を取りとめました。
会社の方は、東京、大阪は別会社にした独立採算としたようです。戦時色が強くなってきた昭和14年にネオン禁止令が出、会社の方も方向転換を余儀なくされました。
終戦後、また皆さんがネオンを始められるようになりましたが、父はこれからという時、昭和22年1月5日、戦後目覚しいネオンの復活も見ず他界いたしました。しかし我国ネオンの先駆者として業界に名を残して頂き、さぞ喜んでいることでしょう。
クロードの歴史はネオン業界の歴史でもある。若い世代に正確に伝えることが大事と、同業者でありながらクロードを称えて下さった廣邊名誉会長、小野副会長に御礼申し上げ終わらせて頂きます。
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