名物にうまいものなし
近年のグルメブームで、海外ツアー参加者の中には美味しいもの、珍しいものを食べたいということも目的の一つに持って出かける人が結構多いのではなかろうか。旅行社の案内パンフレットには「どこそこでは名物料理の何々をご賞味いただきます」などとうたっていることが多いことからもそのことが察せられる。しかし、その名物料理ほどあてにならず、期待を裏切られるものはない。私など何でもいいからとにかく喉に通るものを出してもらえさえすれば結構ですとさえ言いたい。「名物にうまいものなし」はわが国の言い習わしだが、それは世界中どこでも当てはまるようだ。
そんな経験を昨年の夏、ベネルックス三カ国を旅したときにも味わった。ブリュッセルであちらの名物料理ムール貝のワイン蒸しというのを食した。それも有名なレストラン街イロ・サクレ地区にあるムール貝料理の老舗店で、である。貝料理はヨーロッパではめったに味わえないから期待が高まる。前菜のあと深鍋に盛られたムール貝が出てきた。小ぶりの黒い二枚貝はイタリア料理のスパゲッティやリゾットの具でおなじみの貝である。殻をピンセットのようにして身をつまみ出し、そのまま口に運ぶのが食べ方のコツ。
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ムール貝料理で有名なシェ・レオン |
この店では分量で大と小があってわれわれが食したのは小のほうだったが、それでも鍋が空になる前に飽きがきた。なんとも大味なのだ。これなら日本の居酒屋で出してくれるアサリの酒蒸しのほうがよほど味わい深い。この貝は日本のスーパーでも売っているが、値段が安い割にはあまり食材として利用されることはないようだ。魚類にかけては世界一のグルメを誇る日本人の口には合わないのだろう。そんな貝をうまそうにかぶりついているヨーロッパ人の気が知れない。そもそもあちらではムール貝程度しか獲れないのだろうか。
ヨーロッパの主食はジャガイモ
日本人が米を主食にするのに対して、ヨーロッパ人の主食はパンでもなければ肉でもない。パンは常に食卓にのせられ、なくなればいくらでも出してくれるが、その位置づけは料理の箸休めか付け合せ程度ではなかろうか。彼らが最も多く食べるもの、毎食食卓に出されるものといえばジャガイモなのだ。ゆでる、つぶす、あげるとあらゆる形で料理され常に皿にのっていて、それもかなりのボリュームなのだ。もっともメインの料理がまずくてジャガイモだけ食べることもままあった。
しかし、残念なのは日本の卓上ソースにあたるものがないのだ。ヨーロッパ料理の味はソースで決まるとはいうが、それはコックが手作りするもので、それなりの料理にあらかじめかけられて出てくるだけ。食卓には塩とコショー以外の調味料はない。オランダでは日本のコロッケによく似たジャガイモ料理がよく出た。形も大きさも日本の蟹コロッケとよく似た形だが中身はジャガイモだけ。これに塩をかけただけではあまりぴんとこない。ウスターソースがあったらどんなに美味しく食べられることかと何度も思ったものだ。食卓に卓上ソースが置いてないのはヨーロッパでもアメリカでも同じ。あちらの人間はキッコーマンの出しているソースの味を知らないのか、それとも舌がよほど鈍感なのだろう。
昔はじめてオランダに行ったとき、腹をすかせて昼食のテーブルについたら出てきたのが、前菜のサラダのほか大皿に盛られた小ぶりのふかしジャガイモだけ。戦争直後の食事風景を思い出した。それも皮付きのままで、それを剥いて塩をかけて食べるのだが、いくら腹がへっていてもそうたくさん食べられるものではない。もっともそのときは旅行社の予算が関係していたかもしれない。
チーズの国の弁当
オランダは酪農の国で、この国のチーズは有名。日本の鏡餅のように大きく丸い形をしていて、それを薄くスライスして食べる。表面は硬くコーティングしてあり、切り口を下にして置いておけば長期保存できる。ヨーロッパ人は概して食に関しては質素だが、中でもオランダ人の倹約ぶりは有名で、ほかのヨーロッパ人の笑い話の種にさえなっている。割り勘のことをヨーロッパでダッチ式というほどだ。なにしろ朝も昼もスライサーで切った薄いチーズをはさんだパンだけなのだ。「今日は女房が寝坊をして、昼の弁当を作る時間もなかったよ」と聞いても日本人はなんとも思わないが、オランダ人ならニヤニヤする。パンにチーズをはさむだけなら2,3分もあれば十分だが、そんな時間もなかったという次第なのだ。子供の弁当づくりに2,30分はかける日本の主婦には考えられない。このチーズも薄ければ薄いほど旨いというのがオランダ人の持論だそうだ。この国の人たちもほかのヨーロッパ人の例にもれず夏は一家総出で長期のバカンスに出かけるが、自家用車で出かけて食事はパンやチーズも持参するからほとんど金を使わない。彼らはその分を家にかけるのだろう。家はどんな地方都市に行っても、農家や漁村でさえも立派だ。
米料理は最低
ヨーロッパの米料理といえばイタリアのリゾットやパエーリアが有名だし、メインディッシュの付け合せによくだされる。リゾットは結構うまいが付け合せの米は難物だ。
ヨーロッパの調理人は概して米の炊き方を知らない。ご飯が出たと喜び勇んで口にすると生煮えの芯のあるご飯であることが多い。日本人は米が主食と知っていてか、ウエイターが得意然として運んでくるが、ほとんどの日本人は手をつけない。クロアチアのドブロヴニクでは黒づくめのシックなインテリアの高級レストランで食事したが、出された米の料理を一口食べてがっくり。ガリガリしそうな生米に近い状態なのだ。いくらご飯に飢えているからといってもこれは食えない。仕方がないから混ぜ込んである具だけより分けて食べたが、こんな料理はヨーロッパ人でも容易に食べないのではなかろうか。日本人が足を運ぶレストランならもっと米の炊き方を勉強してほしいものだ。もっともあちらでは日本の短粒米より東南アジアで作っている長粒米のほうが主流だ。ポルトガル人はヨーロッパではめずらしく米をよく食べるし、短粒米も長粒米も自国でかなりの量を生産している。ここでは日本で外米といって嫌われる長粒米より短粒米のほうが安いというから面白くない。
幻滅の海鮮料理
ヨーロッパのホテルやレストランで出される魚料理といえば、ほとんどが衣をつけて揚げたものかソテー風のもので、焼き魚は出ない。生は食する習慣がないから無理にしても、せめて焼いただけの魚を食べさせてくれたらどんなにいいかと思うが、どうしてだろう。私はその理由をひとえに醤油がないせいではないかと思う。焼き魚にソースをかけても美味しくない。ついでに言えば生の魚を食しないのは醤油に加えてわさびがないからではなかろうか。刺身に醤油とわさびは欠かせない。
実際、醤油とわさびがなければ刺身は食えない。
ポルトガルのナザレという漁師町に行ったとき、ここの名物が珍しいことにいわしの炭火焼だった。添乗員が日本から持参した醤油をかけて食べたが、これぞ日本料理、生き返ったような気持ちだった。
イタリアのツアーで、蟹を食べさせる店に案内してもらったことがある。テーブルに着いたわれわれに渡されたのは木槌とはさみ。まったく包丁の入っていないゆで蟹と格闘することになった。不思議なことにヨーロッパの蟹は日本の蟹のように身と殻がすっぽりとはがれないから面倒だ。手はぐちゃぐちゃ、テーブルは殻の山とあいなった。おしぼりの代わりにティッシュを渡してくれたが、それでは手の汚れはきれいに落ちないから気持ち悪い。おまけに調味料はオリーブ油しかないからまいった。油っぽくてちっとも美味しくないのだ。ヨーロッパで海鮮料理は食べるものではないとつくづく思った。
しかし考えてみれば、欧米人が新鮮な魚の味を知らないということは日本人にとっては幸いである。世界の漁場を荒らしまわっているのは日本の漁船であり、各国から大量の魚やえびを買い付けているのも日本である。われわれは世界の海の幸を一手に胃袋に詰め込んでいるのだ。ごく安い対価でそんな贅沢三昧ができるのも、日本人だけがその美味しさを味わう舌を持っているからに他ならない。
不思議なヨーロッパ式酒の飲み方
ヨーロッパでは街歩きの途中一休みしたり、トイレを借りたりするためによくカフェを利用する。居酒屋にも入ったが、ヨーロッパ人の酒の飲み方を観察していて不思議に思うことが多い。日本の場合はつまみを2,3品並べて、どちらかといえば料理を楽しみながら飲むが、あちらではつまみはあってもチーズかハム程度、多くの場合酒だけを飲んでいる。しかもビールの場合、チビリ、チビリと珈琲でも飲むような感じなのだ。日本のように喉を鳴らしてゴクゴクと飲むことをしない。あれではビールの醍醐味は味わえないだろう。日本のようにお互いにお酌しあうという風景も見られない。レストランで出されるのはどこも小瓶で一人一本。オーダーしなければ追加は持ってこない。食事中のビールは水の代用的存在なのかもしれない。そもそもヨーロッパでは小瓶しか売っていない。それでもビールの一人当たりの消費量では日本とは比較にならないくらい多いのは、店では倹約して家で飲むというわけだろうか。
日本ではビールのうまさは泡にあるという。クリーミーな泡はたしかにうまいし、その泡が中のビールの保護層になる。でもその論理はイギリスでは通用しないらしい。パブでもレストランでもうまい生ビールを飲ませてくれるが、その注ぎ方が面白い。グラスの縁までいっぱいにビールを入れるのだ。そのためにグラスの縁から盛り上がった泡をへら状のものでそぎ落とした後また注ぎ足す。それを2,3回繰り返し、完全に縁まで満杯にする。その徹底ぶりは泡を不要のものとみなしているからなのか、店の計量の正確さを確認させる意味があるのかよくわからない。そんなやり方はほかのヨーロッパ諸国では見たことがないからイギリスだけの習慣のようだ。同じビールでも国が違えば飲み方もかくのごとく違ってくる。
和食党の言い分
私は昔からパンがきらいで、小学校時代は5年生のときからパン給食だったが、私だけ家でご飯の弁当を作ってもらっていたくらいだ。中年以降は肉が苦手になり、野菜や魚のおかずを好む。そんなことから、海外旅行は大好きだが欧米の食事はいつも嘆きの種である。ちょっと前まではインスタント麺をたくさん持参し、朝食はそれで済ませていた。最近はそれも面倒になり、ツアーのうちの何回かは和食レストランに行って鬱憤をはらすことにしている。
そんな和食党としては、ヨーロッパの食事にいろいろと偏見を持たざるを得ない。まず言いたいのは、彼らの味覚感覚である。薄味すぎたり、しょっぱすぎたり、サラダならすっぱすぎたりする料理を平気で出す。味については当然個人の好みもあるが、その許容の度合いを超えているのだ。我が家ならこんなものを食えるかと怒鳴るところだが、英語がしゃべれない悲しさ、だまって口に入れるしかない。日本のレストランでこんな料理を出せば客は来なくなるだろうが、あちらではそれでも有名店として通用していることが不思議である。考えるにコックの舌と同様、客の舌もよほど鈍感にできているのだろう。お互い味音痴同士だから問題がないというわけだ。彼らが刺身や煮つけの淡白な魚料理を食しないのはそのせいではなかろうか。魚の微妙な味を理解するにはそれなりのデリケートな味覚が必要なのだ。なにしろ、イカ刺しをゴム管をかじっているようだと言う連中なのだ。
食事の作法についても一言いいたい。日本人は日本武尊の昔から箸を使っていた民族なのに、ヨーロッパ人は近世を迎えるまで手づかみで食事していた。それがフォークとナイフを使い出してから、これが文化国家の食事作法ですといわんばかりなのはどうだろうか。
フォークとナイフは実に使いづらい。箸で食べられないものはないが、アジの開きをフォークとナイフで食べることは不可能に近い。それが麗々しく何種類もテーブルに並べられて、使う順番まで決まっているのだからやりにくい。白いテーブルに並べられたたくさんの銀色の道具は、私には手術台の光景が連想されてしかたがない。
磁器の食器とフォーク、ナイフの取り合わせも気障りだ。日本では焼き物の容器に木の箸、湯飲みには木の受け皿と感触がやわらかく、食事の際の耳障りな音も立たない。洋食のガチャガチャ音は和やかな食事どきの神経にさわるのだ。日本ではお絞りなのに洋食ではナプキンというのも不合理。パンは手づかみだからわれわれは口もとの汚れより手の汚れのほうが気になる。彼らが食事の際にナプキンで口もとを盛んに拭くのは、キスをする習慣に関係あり、いつも口の回りの清潔を心がけるからなのだろうか。もっともフォークでは食べ物がきれいに口に収まらない。最近読んだ本に書いてあったが、ナプキンもフィンガーボールも発祥は手食時代にあり、その名残りとのこと。なるほどと思ったが、それならなおのこと、お絞りのほうが理にかなっているだろうに。
グルメ大国日本の異常
日本の女性を妻にし、中華料理を食べるのが一番の贅沢というが、その伝でいくと日本の男性は世界一幸せではなかろうか。中国人は中華料理しか食べないが、日本人は和、洋、中華料理と何でも食べる。日本では世界のどんな料理の店でもそろっているし、中華料理など本場、中国より日本のほうがうまいとさえいわれるくらいだ。日本人ほど世界中の料理をそのときの気分と好みに応じて食べる節操のない雑食家は世界にないだろう。
ヨーロッパ人の食事は日本人から見れば単純だし、質素なものだ。日本の旅館に泊まると10品以上の皿が膳に並び、全部食べきれないほどだが、ヨーロッパではサラダかスープのあとはメインディッシュ一品だけ。日本は食糧の6割を輸入に頼っているというのに飽食が極まり、グルメの限りをつくしている。テレビでは老舗料理の食べ歩きや名物旅館の贅をつくした料理番組が連日連夜放送される。よくもこんな番組をあきもせず作るものだと思うが、そんな番組に関心を持って観る人間が多いがことの証明でもある。こんな国は、世界広しと言えど、ほかにないだろう。
世界を回ると日本人の豊かすぎる食事情と美食に対する異常な関心ぶりが、いやでも見えてくる。現在、世界では8億の人々が飢え、空腹を抱えて眠りにつくといわれる。国民の35%以上が栄養失調の国は27カ国におよぶ。そんな実態をもっと考える必要があるのではなかろうか。世界の現実を省みず飽食におぼれていては、いつか天罰が下るかもしれない。
かく言う私自身飽食にどっぷりとつかり、その恩恵を享受しているわけではあるが。
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