平成二年第二十二回通常総会で会長に就任することになりました。副会長には引き続き大阪の喜多河さんにお願いし、北陸からヨシダ宣伝の吉田隆彦さんに、私の後任として副会長をお受け頂きました。専務理事には関東より板野さんという強力なスタッフのもとにスタートすることになりました。前会長高村五郎氏には新設されました名誉会長の席にお付き頂くことになったのであります。
高村前会長時代の協会活動は渉外を中心に行政対策に重点をおいてきましたので、私はまずネオン業界を新しい世紀にも生きつづけられる体質構造に改革をすべきであろうと考えました。そのためには、まず定款の目的と事業の見直しであります。今日までネオン放電灯を核にしたものから、より広範なエレクトリックサインを視野に入れた協会活動へとスタンスを広げ、事業内容の多様化に対処する為、特別委員会を増設、技術改革担当並びに経営改革担当の二部門を設けることにいたしました。
協会活動を活力あるものにするためには、若手の在京理事を増員しなければなりません。理事数二十二名の内十名を関東甲信越支部から選出して頂き、正副委員長を担当させ、在京理事の効率ある活動に重点を置いた組織造りを心がけたのであります。活発に活動する為に多くの予算が必要となります。しかしながら今までは出来うる限り予算をおさえ、協会費の値上げを極力避けてきたのであります。高村会長時代は渉外を中心に活動をしたと申し上げましたが、このことは、個人的には時間と経費がかかりますが、協会には経済的負担をかけなくてすむからであります。しかしながら、会費の値上げは避けて通れるものではありません。私は値上げを決意いたしました。その為に脱会社が出たとしてもやむをえぬことと考え、理事をはじめ会員の皆様にお願いをしたところ、一社の脱会社をみることなく承認を頂くことが出来たのであります。あの時こそ専心誠意ことに当たることがいかに大切かを知ることが出来たのであります。あらためて皆様の御協力に心から感謝申し上げます。
会員各位のご意見と協会活動へのご支援を頂くためには、心ある広報活動が必要であることは申すまでもないことではありますが、このことをあまり大事にせず怠ってきたことは反省しなければなりません。次に実施すべきことは、協会機関紙のリニューアルであります。幸いにして多くの人材に恵まれ、「NEOS」(ギリシャ語で新しいなにものか)の誌名を頂き、紙面を刷新、表紙絵は「NEOS」の命名者である、三谷理事が担当、全国主要都市の夜景のイラストによって彩られ、裏面は小野理事による世界サイン紀行による写真と絶妙な文章と共に、発刊以来十五年九十号を迎えるところであります。この事は、小野現副会長の情熱が多くの寄稿者と編集委員を動かし、根本女史の献身的な御協力があったからだと思います。
我々は、広報誌「NEOS」を通して、協会活動の有様を詳細に知ることが可能になり、更に国内外の屋外広告業者の情報を共有することにより、会員相互の絆を強めることになったと確信しています。
平成六年に東京臨海副都心で開催を予定されていた都市博覧会には、多くの人々が来日されます、この人達に日本のネオンサインをアピールすることと、合せて「ネオンサインと都市景観問題」を国際的に討議する場を提案する絶好の機会であると考えました。まず、米国のNESAサンフランシスコ大会に参加し、NESA幹部に協力を申し入れたところ喜んで参加し、都市景観とネオンサインとの諸問題を国際的に意見交換することは、大変有意義な国際会議になるであろうとのお答えを頂くことができたのであります。一方東京都は国際会議と資材展を行うのであれば、会場を無料で提供するし、経費の補助も可能との話も頂くことが出来たのであります。早速に板野現会長に準備委員会を担当して頂き、前夜祭・国際会議とテーマ別会議・パーティー・観光旅行等三日間にわたる行事を検討し、諸経費全体で約三千万位の予算が必要と考えたのであります。ところが臨海副都心の造成と建設が予定通りに進行することが困難となり、二年開催を延期するなど、前途に不安要因が続出、都知事選に立候補した青島幸夫氏は都市博中止をスローガンにするなど、なにか雲行きがおかしくなってきたのであります。その頃には板野さんと昭和化成の田中会長には、ドイツの電気照明協会に大会参加誘致の挨拶に行って頂きましたし、大会開催のパンフレットの制作等本格的な準備作業に入る直前でありました。私は大会開催を中止する決断をしたのであります。
結果として、都市博は中止となりましたので判断は良かったのでありますが、博覧会業界には大きな損害となったようであります。
しかし、ある目的にむけ全会員が一団となって未経験なことに挑戦し、共通の目的意識を共有することは大いに意義あることであります。世界中の同業社参加の国際会議は無理としても、太平洋に面した近隣諸国との環太平洋国際会議ならば開催可能ではないか、また協会法人化三十周年も数年後にひかえていることでもありますので、景気回復を見守りながら、それなりの準備はすべきとの考え方に落着したのであります。
その後、ネオン業界にとってなにか欠けているものはないかと考えましたところ、ネオンサインの必要性を広告理論と調査データによって、証明することが出来ないかとの考えに至ったのであります。すなわち、ネオン広告塔を中心とする屋外広告物がもっている広告効果を正しく検証するための可能な評価方法を研究し、広告主の宣伝活動と企業収益に貢献することを立証することであります。当時関ネ協では一年半前から、三丁目理事を委員長として研究中であったことが幸いとなり、東京都の中小企業業種別活性化対策補助事業に、調査事業が助成事業として承認されることになったのであります。早速、広告マーケティングの権威者であります小林太三郎先生に御相談申し上げたところ、委員長として御指導を頂くことになりました。広告主・代理店・関係団体と関ネ協の理事の皆様の参加御協力によって、二年後に我国初めての「屋外広告効果調査レポート」を発表することができたのであります。平成十年六月一日、協会設立三十周年記念式典と第三十回全ネ協総会を東京国際フォーラムで挙行することになりました。私にとって人生最大のイベントでありました。全国より二百六十人の会員の参加を頂き、竣工したばかりの国際フォーラムでの式典並びに総会の開催と、合わせて「ネオンアート展」を始め「屋外広告効果調査レポート」の発表、喜多河副会長・弟子丸理事両氏の資源エネルギー庁長官賞の贈呈そして記念パーティー、その後の銀座晴見通り屋上ネオン広告塔の十五分間の消灯パフォーマンス等、今でも思い出しますとあの様に多彩な行事を、次々に何一つ事故なく、極めてパーフェクトに実施できたことは不思議としか言いようのないことなのであります。ネオン協会万歳と申し上げたいのであります。
後日談になりますが、ネオン協会とは大変な業界だなぁという話であります「こんな不況の時に国際フォーラムで記念式典と総会を行い、夜には銀座のネオン塔を消し、帝国ホテルに一泊して、翌日は小金井カントリーでゴルフをやるという業界は」と言われたことを思い出すのであります。私も不思議なパワーを持った業界であることは確かであると思います。
(続く)
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