私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.64 (4)
 
     (社)全ネ協名誉会長 東京ネオン(株) 廣邊裕二

廣邊裕二さん 昨年、会長就任挨拶の中で新会長板野遵三郎氏は「ネオンを極め、ネオンを超える」と申されました。大変立派なキャッチフレーズであると感心し、同時に近年ネオン業界がかかえる諸課題を克服しようとする板野会長の決意を表明したものと受けとめたところであります。私は「ネオン管の黒化現象」の原因を究明し、解決しなければならないと強く思い、技術委員会に特別班を設け、多くの皆様の協力のもと研究をして頂き、三年の期間と多くの研究費を注いでほぼ解決策を求めることが出来たと考えておりますが、しかし、まだ完全な原因を究明したとは言えません。今後も、ネオンの輝きが曇ることのないよう、引き続き、会員各自での研究が進められますことを願っています。
 私は、東京ネオンの社長に就任すると同時に業界活動を始めることになりました。以来、在京理事として二十六年間会社の仕事もしないで、業界のために八十パーセントの時間とエネルギーを注いできたのですからあるレベルの仕事が出来たのは当たり前のことだと思います。しかし、ネオン業界には各世代にわたって、非常に優れた才能のある人が多数いることを知ることが出来たことであります。出会った方々に最大のご協力を頂き、次々に大きな事業に挑戦し、実施することが出来ましたことにあらためて厚く感謝とお礼を申し上げます。
 北から思い出すままに申し上げますが、北海道の加藤農夫也さんは極めて積極的に発言をするお方でして、一度言い出すと妥協しない、開拓者魂のあふれる人で、どうして看板屋になったのか私には理解することが出来ない立派な人であります。一方の札幌の朝倉正人さんは正反対の人物でして、北国のまとめ役として最適な好人物であります。次に東北の柿沼弘さんは、任せておけば何事も自分の思い通りに押し進めることが出来る人でありますから、あまり人の意見は聞かない人でもあります。澤口康孝さんはなかなかの苦労人で何をされても心配することがない、安心のお方であります。北陸に行きますとヨシダ宣伝の吉田親子でありますが、父の隆彦さんは私が理事会で意見をまとめるのに困っている時には、何時も私の発言をうまく咀嚼して支えて下さったことを思い出します。物事を大局的にみることが出来る大物であります。息子隆平氏は100パーセントのDNAを受継いだ雄辨で気配りのあるやはり大物(身体が)であります。
 次に一番身近にいて苦労をかけた関東甲信越支部の仲間であります。この人達が支えてくれなければ私は何一つ満足に活動することが出来なかったと思います。
 亡くなった三谷洋さんとは仕事の関係上以前から多少の付き合いがありましたので、私より八歳も年長でありましたが、良く気心を通じ合うことが出来た人であります。理事会や委員会ではお静かですが、夕方になると元気の出る人でありまして、良い事もまたその反対のことも二十年近くやってきた仲間であります。
 酒を飲みますと「俺は七十歳まで生きられればいいんだ、」と申していましたが、まさしく、その通りの人生を送られたようです。島崎光夫さんは生真面目一方のお方でありましたから、三谷、廣邊とは夜の行動はめったにありませんでした。三丁目和男さんは仲々の粋なお方でしたが、今は少々健康を害しているようですが、早くお元気になって頂きたいと思っています。あの頃は、この三人に梅根敏志が加わると家に帰るのが二時三時になってしまうほど、楽しく時間をすごすことが出来たのであります。その後、梅根さんがケーブルテレビの方に行ってしまい、三谷さんが亡くなり、三丁目さんも退任されてしまって、私は一人になりました。しかし、良く出来たもので、寂しい私に付合ってくれたのが板野、今井和徳、梅根憲生(弟)、親より先に死んだ清水豊、吉野禮之、高村徹、横山巖の諸氏でした。後日聞くところによりますとみなさんが交替で付合ってくれたとのことであります。多くの事業をするのは、多くの人達の協力が必要であります。幸いに関東には飲むだけでなく仕事の出来る人材が多数いたということです。昭和化成の田中繁夫さん、阿部正明さん、指田充弘さん、新潟の加藤高弘さんそして次の世代を担う若手として左氏充、星野正明、加藤紘一、河村雅敏、佐藤勝己、田邊浩君達の力強い協力と、小野博之さんの「NEOS」編集への変わらぬ努力と、寡黙で頼りになる須江吉助さん、皆さんのお力添えがあったからだと思います。
 名古屋の岩井義則さんは私のネオン屋稼業の中で公私にわたり大変影響を受けた人であります。ネオンのことを何よりも一番に考えることの出来る人であると思います。深澤良介さんは私と同様偉大なる初代の後光を頂きながらも決して驕ることなく真摯に業界活動をされている一人であると思っています。昔のネオン業界は多士済済まとまりにくい業界であったように伺っていましたが、我々の時代は決してそのようなことはなく、何を行うにしても討議をし、全員一致で事を進めることが出来たと思います。
 関西は今も多少なり昔の気質が残っているようにも見受けられましたので、喜多河育造副会長は苦労されたのではないかと思いますが、喜多河さんは私のもっていないものを総てお持ちなっているお方と常々尊敬申し上げている方であります。私の兄に大変に容貌が似ているところがありましたので、横に座られますと落ち着くことが出来ました。大阪の塚脇義明さんが副会長に就かれたので、私は一安心したところであります。この人は仕事の出来る方です、大切にして下さい。
 四国の玉井順良さん、中国の石井俊幸さん、清水忠務さん、そして九州の弟子丸安生さんと新濱聰二郎さん達は私と年もほぼ同じで戦後のネオン業界発展の原動力となった同志であります。そして、中野弘伸先生に内田宏先生、私にとってはお顔を合せるだけで気持ちが分りあえる人達でありました。いつまでもお元気でご活躍していただきたいと願っています。
 色々と多くの皆様にご支援ご指導を頂き、長期間にわたりお世話になりました。特に事務局長加藤さん、南都君そして橋本さん有難うございました。
 最後になりますが、板野会長は彼が小学生の頃から存じていましたから兄のような気持ちでいつも接することになってしまって御免なさい。彼に会長を引き受けて頂くことになり、大阪の総会での挨拶で「ネオンを極め、ネオンを超える」という決意表明をきき、私はこれでよかったと確信をすることが出来ました。
 皆様には長々と思い出話をさせていただきましたが、新会長のもと協会の新たなる発展と皆様のご活躍を心から祈念申し上げお礼のことばとさせて頂きます。   (終)

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