私は、日本の建築史、特に近代の産業遺産の研究を専門とする。特に茶産業に魅せられ、昨年、東京大学にて茶産業と建築の近代化との関係を分析した論文で、博士(工学)の学位を取得した。その論文にひとつのアクセントを与えてくれたのがサインである。平成12年11月〜14年12月までの
2年間、私は、師である工学院大学・後藤治教授を介し、縁あって、(株)東京システック・小野博之社長と知り合うことができ、同社に籍を置かせていただいた。(その後今年4月より再入社。)そこで、初めて本格的にサインに触れ、産業史におけるサインに興味を抱き、着眼するようになる。この頃から日本産業史におけるサインに魅せられ、かつて歴史を彩ったサインの発掘を行うようになる。
本稿では、平成15年〜17年3月まで、静岡県の旧金谷町お茶の郷博物館に在籍した際に得た茶産業におけるサインと、平成14年の(株)東京システック在籍時に発掘した酒造業におけるサインについて紹介する。
「静岡県の茶」を宣伝するサインの歴史サインへの興味
私が茶産業におけるサインに興味を持ったのは、大正 8年の茶問屋の写真に、壁面にペンキで描かれたサインを見てからである。このとき、初めて第二次世界大戦前のモノクロイメージの時代に、黒い外壁面に白文字で店名を無造作に描いた、悪戯書きのようなサインの存在を意識した。殺風景な当時の町並みには、宣伝効果として有効な手段であっただろう。
私は、今年の3月まで静岡県の牧之原にある旧金谷町お茶の郷博物館に勤務していた。博物館の周囲には、広大な茶畑が広がっていた。茶畑の間を縫うようにして、掛川市の粟ヶ岳の中腹に、「茶」というヒノキでつくられた文字が描かれていた。第二次世界大戦以前は、茶の樹を植えて刈り込むことで文字をつくり、鉄道の客に「茶」をアピールする手法が用いられていたことは資料から知っていた。けれども、樹種は違えど、手法は同じものが現在でも実物として存在したことに感激したことを覚えている。
戦前は、鉄道による旅が日常化し始めた時代だったので、鉄道沿いのサインが、静岡茶のPRとして果たす役割は大きかった。
ここでは、まず、私が感激した「茶」という山の中腹に描かれたサインから、茶にまつわるサインの歴史の一部を最初に紹介してみたい。
茶の樹の刈り込みサイン「静岡県の茶」
まず、興味を惹かれたのが身近にあった「茶」という文字のサインだ。一年中、極端に色の変わらない茶樹を刈り込んでつくるという発想はどこから生まれたのだろうか。
このサインが最初に登場したのは、明治42年のことである。菊川市の山の中腹には茶の樹が植えられていて、汽車からも数分間眺められる場所である。ここに富士製茶株式会社を宣伝するサインを作ることを考えたのが最初である。一反十歩の土地の所有者に委託事業として依頼し、土地を切り開いて英文字で「THE
Fuji COMPANY TEA EXPORTERS」と刈り込んだ。このサインは、当時、ニューヨークのデイリー新聞に写真入りで紹介されたという。
けれども、第二次世界大戦中、社会情勢からローマ字は消され、昭和4年には「静岡県 小笠茶産地」という漢字に強制的に変更される。「静岡県」の立札が一文字
2 間四方、「小笠茶産地」が一文字 5 間四方だったという。
茶樹の刈り込みサインは、小笠郡茶業組合でも小笠茶の評判を高める方法として昭和 6年に用いている。JR菊川駅の東方の山腹に茶樹を植え、「小笠茶」の大文字を描き、旅客の眼を引いた。後に、文字の周囲に霧島ツツジを植え、深紅の花と緑の茶文字の対象的なコントラストを浮かびあがらせ、強いインパクトにより大きな宣伝効果をもたらした。
現在もテーマパークなどで、花によって描かれたサインをよく目にする。花木を用いるサインがいつ頃から始まったのかは明確ではないが、茶樹をサインとしたのは明治末期が最初であった。鉄道によって旅が一般化しつつあった中で、茶樹を刈り込んだサインは、画期的な宣伝方法であっただろう。 広告塔とネオン塔
同じく注目したのが、塔状に組みあげられた屋外サインである。当時、静岡駅の廻りには高い建物がほとんどなかったので、さぞかし目立ったことだろう。この塔状の屋外サインは、静岡茶の歴史の中で燦然と輝くものであった。剥き出しの鉄骨で組まれたもので、ともに「お茶は静岡 山は富士」という一般公募による茶業標語の「茶の静岡」という表示がされていた。
広告塔は、昭和 3年12月20日に落成した。静岡市茶業青年団が御大典記念事業として静岡駅前に建設したもので、高さは約21mの三角柱で、各面の表示が「夜間点灯」したという。柱頭には、三角錐の帽子と避雷針があった。夜間点火するので、駅に来る旅客には深い印象が残ったことだろう。
「夜間点灯」の方法は、昭和初期には投光照明(ライトアップ)が流行しているので、投光照明を指したと考えられる。
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昭和3年落成のもの |
昭和8年に建て替えたもの |
ネオン塔は、昭和 8年 3月 5日に落成した。広告塔と同様、静岡駅前に静岡市茶業青年団によって建てられた。広告塔が静岡市の都市計画区域に掛かり撤去されたので、それを受け継ぐ形で静岡駅前の正面の別の敷地に、ネオンサインを用いた鉄骨造の塔を建てる。
高さは撤去した広告塔よりも高く約36m、形状は四角柱であった。頂部に青色ネオンで富士山が描かれ、文字は赤色ネオンで描かれた。文字は約
2.4m四方で、施工は大林組が担当した。文字は懐かしさを誘うネオン特有の書体が用いられ、頂部には奇妙な富士山のオブジェが載る。えもいわれぬ古き良き時代を感じさせるネオンサインが、静岡駅前の象徴として、愛らしい雰囲気をかもし出していた。
点滅式のネオンで照らし出され、「静岡駅で下車すると、否が応でも目に入ってくる」と、当時の雑誌にはこぞって紹介され、静岡茶にとって大きな宣伝となった。手前に見える日本酒「日本盛」のサインと比較すると、その規模が桁違いに大きいことがわかる。静岡茶を旅客に宣伝するために建てたネオン塔が、旅客に強烈な印象を与えたことは間違いない。
ネオンサインの最盛期は、昭和11〜12年頃である。大正末期に日本に輸入紹介され、昭和 3年に朝日新聞の屋上広告、翌年に上野松坂屋の屋上輪郭線、昭和
7年にカフェー銀座パレスに用いられて、人々の注目を集めた。こうしてみると、静岡茶のネオン塔が、全国的に見ても早い時期の設置例であることがわかる。静岡茶の繁栄を映し出しているとも言えよう。
ネオン塔も戦争には勝てず、昭和14年に鉄、昭和15年に電力が統制され、ネオンその他の使用も規制される。ネオン塔も昭和16年 6月
1日に撤去され、その姿を消す。
お茶が静岡県の主幹産業となる過程で、こうしたサインが躍進の一翼を担っていたことは確かである。銀座をモボ・モガが闊歩していた当時、地方の一都市である静岡県の鉄道沿いには茶樹を刈り込んだサインが旅客の目を奪い、静岡駅前ではネオンサインが「茶の静岡」という光をはなっていた。
現代、世の中のサインが派手さを競い合う中で、ネオン塔やペンキで描かれたサインなど、郷愁を誘う、むかし懐かしいサインが、再び見直される時代が到来するのかもしれない。
八幡浜港のランドマークサイン「ウメビジンホン店」
四国一の規模を誇る魚市場を持つ愛媛県八幡浜市に、古めかしい文字で「ウメビジンホン店」とサインが描かれた煙突が宇和海を見おろしている。
愛媛県の最西端、日本一細長い佐田岬半島の基部に位置する八幡浜港は、明治10年に外輪船による八幡浜・大阪間の運輸業が始められ、明治期には「伊予の大阪」と呼ばれる。南予地方最大の商港として、大阪から商品を仕入、高知県や愛媛県南部、九州などに向け、呉服や太物の中継ぎ貿易で栄える。この時期に、呉服の行商で富を築き、大正
5年に酒造業を始めたのが、このサインを設置した上田酒造場の創業者・上田梅一である。
上田酒造場は、日本酒「梅美人」を醸造しており、現在も梅美人酒造株式会社として醸造を続けている。上田梅一は、昭和 3年の昭和天皇御大典を記念して、蒸米を作る際に使用する石炭の煙を逃すための煙突を建てる。高さ約
23mを誇る赤レンガの煙突には、「ウメビジンホン店」の白い文字が記されている。
屋根に上り、近い位置で煙突を仰ぎ見ると、「ウメビジンホン店」の文字が、赤レンガの表面に白タイルで貼られていることがわかる。当時は、技術もさほど発展していなかったので、タイルの四角形を基本として文字を組み合わせている。四角いタイルの不器用な文字が、レトロで独特な味わいをかもしだしている。白タイルの文字は八幡浜港を向き、当時は八幡浜港に入港する多くの船を出迎えるランドマークとして、現在では地域のシンボルとして親しまれている。平成16年
3月29日、梅美人酒造株式会社のその他の建物とともに国の登録有形文化財に登録された。
日本産業史におけるサイン
本稿では、茶産業と酒造業におけるサインについて紹介した。日本の産業史の中には、まだまだ多くのこうしたサインが眠っている。特に、現在はあまり使用されることが無くなったネオンサインは、一時代を築き、世の中を淡い光で照らし、人々を包み込んだ。ネオンサインは、建築史でも取り上げられることが多い。私は、機会がある限り、今後もこうした産業史におけるサインを発掘し、紹介していきたいと考える。そのことで、サインがこれまで産業史上で果たしてきた役割の大きさを知っていただければ幸いである。
写真出典:
茶文字は『菊川町茶業誌』(菊川町、1984)、ネオン塔・広告塔は『茶業界』(第24巻第 1号,1929、第28巻第 4号,1933 静岡県茶業組合連合会議所)。茶文字の現在の写真は「花井洋子氏」撮影。
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