昨厳しかった父
私は明治42年新潟市で10人兄弟の9番目、三男として生まれました。父は小船を沖に出すと幼い私を海に放り込みました。「死にたくなかったら泳げ」という教育でした。
父は明治20年に17歳で慶応義塾に入学、新潟で最初の塾生でした。福沢諭吉の薫陶を得て実業界に進み、新潟貯蓄銀行(後に第四銀行に合併)の設立者の一人となり、また当時日本石油と並ぶ勢いの宝田石油の役員も勤めました。
また父は横山商店という商社を興し貿易を始めました。その商社は米穀や肥料などの輸出入で随分と栄えました。
破産、隠遁そして奇人
しかし私が子供のころ輸送中の汽船が難破し父の事業は破綻、我が家は破産してしまいました。一転没落した父は新潟の巻町にある角田山山頂に小さな観音堂を作り、山伏のような総髪で隠遁生活を始めました。
父は山頂から新潟の町を見下ろし「信濃川にバイパスを作って流れを変えれば新潟を水禍から守れる」という壮大なプラン「関屋分水」を提唱し陳情に生涯をかけました。しかし奇人の戯言と相手にされず、報われることなく75歳で没しました。
戯言の実現
当時は馬鹿げた話だとされていた関屋分水は、父の死後26年を経た昭和47年に実現し、河口の公園に父の銅像が建てられました。
また角田山山頂には巻町が後年立派な観音堂を建築され、ここにも父の銅像が建てられました。
不遇に終わった父でしたが、信じる道を突き進むと決して考えを曲げることの無い性格でした。私にとって父は超えることのできない生涯の目標でした。
発明家を目指して上京
苦しい家計で長岡工業の電気科を出してもらえたのは幸せなことでした。私はとにかく寒いのが嫌いで、東京に行って発明家になるというのが夢でした。
18歳で上京して東京発明研究所に就職し、真空管の研究開発などに従事しました。20歳で無線技師として軍隊に入隊して、23歳で満州奉天の関東軍電信隊に従軍しました。
その頃東京で知り合ったのが75年も連れ添うことになる妻のミツです。当時の女性としては随分行動的で、単身満州まで私を追いかけて来てしまいました。
我が青春の満州時代
技術者として恵まれた環境にあり幸運にも技術開発で3度の表彰を受け、20代で通信所長になりました。私は軍人ではありませんが士官の扱いを受けることになりました。
妻、そしてドーベルマン2頭と暮らした満州での13年間は日々充実し満ち足りたものでした。仕事を終え私が駅に着く頃に、官舎から黒い弾丸のように駆けてきた愛犬たちが思い出されます。
当時義兄も満州に来て満鉄で映画製作に携っていました。日本を飛び出した若者たちにとって満州は夢と希望に溢れた新天地でありました。
敗戦とシベリア抑留
終戦の混乱の中、妻は身一つで満州を脱出帰国、私は捕虜となり総てを取られ、唯一隠し持っていたのは切手大ほどの妻の写真だけでした。列車に揺られてシベリアに抑留され3年間の強制労働を強いられました。
零下50度の酷寒の地で、満足な食事も与えられず多くの仲間が次々と死んでいきました。私はここで同郷の情報部員と生涯の友になりました。彼は「自分は魚の骨が好きだから」と言って、私に身を食べさせてくれました。私が解放されるまで生きられたのは彼のお陰であったと思います。
帰国
昭和23年11月、舞鶴港に着いた私は静岡県浜松市の妻の実家に身を寄せました。発明家の夢も無線技師としての成功も全て失い抜け殻のようになっていました。
地元の工場に勤め水飴を作っているうちに3年の月日が流れてしまいました。妻の実家である材木屋を継いでいた義兄はそんな私を情けなく感じたのでしょう。厳しく叱咤された私はもう一度技術屋として再スタートする決心をしたのです。
ネオン屋稼業への転進
ネオンは戦時体制において禁止されるという不幸な歴史を経ましたが、私は経済復興の中で改めて成長する分野の技術だと考えました。
当時浜松市では既に東宝ネオンさんが基盤を築いておられたので、私は新天地の静岡市で開業することにしました。昭和26年、葵ネオン照明工業所を創業したとき私は既に42歳になっていました。
東京ネオンさんと兄の思い出
私の2歳上の兄平八は、東京で働いていましたが、昭和10年に28歳という若さで亡くなりました。その遺品から東京ネオンという兄の名刺を見つけました。
後に私がネオン屋を始めたきっかけには兄の思い出がありました。以前ふと思い出して、東京ネオンの廣邊社長さんに兄の話をしたところ大変驚かれました。残念ながらその頃の資料は残っていないため、兄がどんな仕事をしていたのかは知る由もありませんでした。
10坪からのスタート
敷地10坪の工場兼自宅。私は自転車で営業に廻り、現場作業まで何でもやりました。妻は社員の賄いと経理の傍ら、息子を背負って毎日電極を作りました。
幸いにもネオンの需要は期待通りに増加し、2年後には事務所と工場を借り、その後も幾度かの移転を経て工場を拡大していきました。
大型ネオン塔の受注をするようになると、トラックにネオンや文字、資材を満載して全国に出張し、社員は大挙して旅館に泊まりこみで施工にあたりました。昭和40年代はネオンの黄金期でした。
ネオン管の技術
私は独自のネオンを創ることを目指しました。電極はオリジナルの釣鐘型で、雑音が出難く虫食いの起きない良質なネオンが出来たと自負しています。
残念ながら今ではネオンの需要が減少していて寂しい限りです。私はネオンの長寿命を生かして、例えばトンネル内の照明などに使えないかと昔から思っていました。これからの時代にもネオンの活路はあると思います。
真空成形看板でいきなり失敗
当社に「安全第一」という古ぼけた成形看板がぶら下がっています。40年以上前のもので、当社で最初の量産品です。
私はネオン屋ですが、新しいものを見るとどうしても挑戦したくなる性格なのです。無理をして真空成形の機械を導入しました。この「安全第一」の成形看板を、あちこちの工場に売り込んだのですが結局売れずに終わってしまいました。
人間万事塞翁が馬
しかし運は巡ってくるものです。当時はガラスの看板が主流だったのですが、ある化粧品会社の静岡支店に真空成形の袖看板を提案したところ、とても気に入られました。
早速東京の本社に試作品を運んで見て頂くと即決で採用になり全国のチェーン店に取り付けることになりました。その化粧品会社の好意で東京の五反田にあった同社の倉庫を譲って頂いて東京営業所としました。これが東京進出のきっかけでした。
葵広告美術高等職業訓練校
昭和46年に静岡県知事認可の葵広告美術高等職業訓練校を開設しました。生徒は午前中デザイン、設計、電気、施工などの授業を受け、午後は当社で現場実習をするという3年間のカリキュラムを修了すると、2級広告美術技能士の試験が免除になりました。
私は次代を担う若い技術者を養成するという理想に燃えていました。それに卒業生が当社に就職してくれるという喜びもありました。
後に静岡総合高等職業訓練校に広告美術科が新設され、当校は県に移管されましたが、当時の業界に於いては画期的な試みであったと思います。
オイルショックと労働組合
高度成長時代には私はあらゆる部門を社内に持つ総合工場を理想と考えていました。そのため当時工場の人員だけでも100人以上おりました。
しかしオイルショックで仕事が激減すると経営は極めて厳しいものになりました。そんな経営難の状況で労働組合ができました。上部団体は総評系の勇ましいところで、団交には外部から応援部隊がやってきて赤旗が立ち並びました。
引退
正直言って裏切られた思いがしました。すっかり嫌気が差した私は「もうお前らに任せたから知らん」と宣言しました。それからは会社にも行かず、業界団体の仕事以外は一切しませんでした。
この危機をきっかけに幹部社員達が自立して頑張りました。私には出来ない会社のスリム化を果たし、改革を進めてくれたことを大いに感謝しています。
平成4年息子が社長になり、私は本当の隠居生活に入りました。会社を支えてくれた面々も引退し、新しい世代の社員たちが活躍しています。労働組合も自主解散し、今では懐かしい思い出のひとつになりました。
終わりに
ネオン屋として50年以上も会社を継続できたのは本当に幸せなことです。これまでネオン業界の多くの方に教えられ育てて頂きました。愛して止まないネオンの光がこれからも輝き続けますことをお祈りして私の思い出を締めくくらせて頂きます。
付記
7月4日95歳で永眠した父横山千吉に対して賜りました皆様のご懇篤なるご弔意に厚く御礼申し上げます。本人は手が不自由で「ネオン屋稼業」の執筆ができなかったため、聞き取ったものを纏めさせて頂きました。
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