ネオン前線北上中

 
 腕自慢・ワザ自慢 78 
ネオン管加工
中国支部 山陽ネオン(株)
菊波 勇さん
菊波 勇さん ――ネオンの仕事に就かれたきっかけは?
 子どもの頃ラジオを作っていたので、真空管やトランスに興味がありました。会社に入ったころは「丁稚」みたいなもので、管曲げの職人さんの後ろで毎日見ているだけでしたね。
――厳しい世界ですね。“手取り足取り”はなく?
 ないですね。ようやく電極を作らせてもらって、管曲げもやって見ろといわれ、怒られながらやりましたよ。忙しい時は徹夜が続きました。今となれば感謝しています。自分で勉強できた。教わるということは教えてくれる人以上のことはできないわけですから。
――なるほど。それから独立されたのですね。
 昭和43年、30歳の時に独立しました。ネオンの難しさは点灯して3年、5年経って初めて結果が出るということですね。きれいな状態を長く保つということは、1本作っても3000本作っても同じようにいい物を作らないといけないということだと思います。
――その秘訣は?
 自分の健康管理に責任を持つことですね。機械に頼ると100%機械の調子に左右されますが、人が作るということはその人の体調に左右されるということです。酒も煙草も飲まない。仕事をすることが好きですから。
 50年、ネオン管加工をされている菊波さん。半世紀を重ねた言葉には説得力があり、なによりネオンが大好きという情熱が伝わります。

 

 
 う・ち・の・会・杜 83 
北陸支部 かなづや(株)
土橋信一さん

土橋信一さん 屋号の金津屋は七代続いた由緒ある紙問屋だったという。そのまま社名になり、現社長の土橋信一さんのお父さんが昭和35年に看板店を開業。「金津」はあわら温泉の近くに今も残る地名でもあります。
 「父は京都芸大の日本画を出て、花鳥画の大家と言われた山口華楊の一番弟子でした。それから学校の教員をした後に、かなづや看板店を始めたのですが、商才はなかったらしく借金が増えるばかり。見かねて私が大阪で修行をして一緒にやるようになり今に至っています」
 徐々に大型看板、ネオンサインを手がけるようになり平成2年に新工場設立。現在福井にある本社と武生、鯖江に営業所、工場は敷地500坪に建物は400坪。社員数15名。
 「うちでは全部の工程を自社製作。鉄工場みたいなものです。お陰様で同業者からの仕事の依頼も多いんですよ」。北陸、関西圏のみならず関東へとエリアを拡大。
 「作り手がわくわくする、芸術性の高いネオンサインを手がけていきたい」と意欲的です。
 土橋さんもお父様譲りで日本画家としても活躍。都心での個展も度々開催、本社には作品の常設館「越前村美術館」が。また通販事業も手がけるなど多方面にわたるビジネスを展開しています。

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