私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.67 (4)
夢を追って
     関東甲信越支部 (株)東京システック 小野博之

小野博之さん 協会の活動ではもうひとつ思い出深い事業があります。
 平成10年、協会設立30周年の記念事業として当時全国の都市にあった代表的なネオン作品をビデオに記録することになりました。提案者の私が実行委員長に指名され、いろいろと案を練りました。
 ただ単に作品を紹介するだけでは能がありませんし、一般の関心を呼びません。また、素人が撮ったものでは映像がつまらないものになってしまいます。幸いネオン協会では平成元年にネオン工事資格者認定講習を開始したときネオン工事ビデオを制作しています。そのときのリクルート映像という会社に再度委託することになりました。
 ビデオは2部構成とし、第1部ではネオンサインの歴史と全国9支部の代表都市のネオン作品を収め、第2部では広告コンクール等で入賞した優秀作品を収録しました。作品の選択からシナリオの練り上げ、撮影現場の立会い、インタビューをお願いした遠藤亨先生のアトリエ訪問、そしてナレーションの録音立会いと忙しい日々を過ごしましたが、できばえは素晴らしいものがありました。
 作品は同年6月1日、東京国際フォーラムで開催された式典会場で上映されました。その後英語バージョンも制作し、ISAほか各国に提供し、日本のネオンの美しさと優れた技術が賞賛されました。
 それから8年を経過しますが、ビデオに収録された作品の大部分はもうすでに撤去されていて見ることは出来ません。載っていたビルそのものが建て替えられた例も少なくありません。つくづくと日本の都市の変化の速さを感じると同時に、ネオンサインが都市に咲くあだ花としていつの間にか消えていく存在であることを痛感させられます。
 ビデオでの収録はまさにそのことゆえと言えます。ネオンサインは日本の広告分野を代表するひとつの文化であり、日々生まれては消えていくそれらの作品を記録し、未来に残すことはネオン業界に託された大きな責務と考えます。このビデオは後々には価値をもって見直されるものと確信します。
 考えてみればNEOSの仕事も記録という点で共通します。その記録でひょうたんから駒のように派生したのが「世界サイン紀行」の出版でした。この本の出版経緯については当誌の一昨年新年号(VOL.81)に「発刊からSDA賞受賞まで」と題して書きましたので省略しますが、その後、昨年7月に第4巻を発刊することが出来ました。
 出版社である「智書房」の岩波智代子社長はネオン協会の会員でもあり、シートサインの(株)シーエス・エイを経営する傍ら出版業も営むという珍しい方です。昭和60年に総合報道のアメリカ視察ツアーでご一緒して以来のお付き合いでした。その第18回目のツアーであったことから同行したメンバーで一八会(イッパチ会)という会をつくり、私が会長、岩波さんが幹事長をつとめ現在も続いています。
 第一巻は岩波さんの勧めで恐る恐るという感じでしたが、二巻目からは自信がついてむしろ私の方からお願いして出版していただいている情況です。出版事業というものは一流の著者が書いたものは別にして、採算に乗せることは容易ではありません。本を出すたびに岩波社長の借金も増すことになり、申し訳なく思うのですが、出版にはそれだけ魅力があることも確かです。それはオーバーな言い方ですが、自分の分身としての生命をこの世に誕生させ、社会に何らかの存在感を持つことの喜びとでも言うようなものです。誰から頼まれたのでもなく、1円の金銭的利益を期待するでもなく打ち込める仕事。それがいまの私にとって「世界サイン紀行」の出版と言えます。出版事業に対する情熱は岩波さんも同様で図らずも夢が一致したわけです。
 金銭的な見返りはないものの、影響力については多少の反応はあったようです。昨年の3月25日、「日経新聞」文化欄に「魅惑の光・世界ネオン探訪」と題してネオンの魅力を紹介させていただきました。また、大塚製薬が病院や薬局向けに出版している月刊広報誌「大塚薬報」に今年の新年号から「街のネオン・グラフティ」というフォトエッセーを連載することになりました。本来ネオンとは何ら接点のない医療関係の人たちがこの記事を関心を持って目にしてくれることは嬉しいことです。ネオンサインの魅力について少しでも多くの人々にアピールしていければと願っています。
 本の出版以来、旅行する先々でその国のサインが気になって注意深く観察するようになるとともに、旅の回数も増えていきました。私はもともと建築に魅せられ建築家を志したものの挫折した人間ですが、鑑賞者の立場で世界の優れた建築を見て歩くことは無常の楽しみです。生涯訪れるチャンスは絶対ないだろうと思っていた人類の遺産に身をもって接することの至福。それにサインの観察、収集が加わり、海外旅行はより密度の濃いものとなりました。旅行は現在まで58回を数え、通算59カ国を回りました。でも、行ってみたい国や見てみたい建築はまだまだ数え切れないほどあります。私の世界行脚はこれからも元気な限り続くでしょう。
 会社の話に戻りますが、11年前の平成7年、創業40周年を迎え、いままでの社名、「東京照明」を「東京システック」にCI変更しました。創業時、父の考えではネオンサインだけにとどまらない照明サイン全般を商う意味で東京照明と名づけたようですが、知らない人は山際電気や山田照明のような照明器具屋さんをイメージするようです。そんなこともありますが、バブル崩壊以来売上が減少に向かい、業態を固定せず間口を広げた企業体にしたいという気持ちがありました。システックはシステム(組織力)とテクニック(技術力)の合成語でこれならイニシャルのT・Sは変わりません。長らくお付き合いいただいたお客さんは戸惑うのではなかろうかと心配しましたが、そのよう杞憂も一切無く定着し、企業としてのイメージもより高まったように思います。
 昨年12月8日に50周年を内輪で祝いましたが、その半分の25年間を私が社長としてやってきたことになります。これからの時代は若い人たちが柔軟な姿勢で、時代にマッチした経営方針の下にやっていけばいいと思い、後進にバトンタッチしました。これまで長い階段を一段一段上るように、不透明なベールを一枚一枚はがすように歩んできましたが、気がついたら山の頂にたどり着いていたような心境です。とはいっても企業の行く末はまだこれからです。でも、それは育ってきた後輩たちが担っていくことでしょう。私自身は企業トップとしての重圧から解放され、まだ動ける残りの人生をやり残した夢に消費したいと思います。
 私の好きな人生訓は「人間万事塞翁が馬」です。順調なときはそれにおぼれず、苦しいときは先に行けば必ず開けるということわざに従い、おごらず、挫折せず今日までやってこられたことをうれしく思います。
 以上4回にわたって貴重な誌面を割かせていただきましたことに感謝申し上げます。

(了)


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