ネオン屋稼業に登場してほしいとお話を頂いて、さて、私は独立して今年で何年になるかとよくよく思い出してみたら、もう40年もこのネオン屋稼業に身を置いていました。その頃の全日本ネオン協会の会員名簿を捜したら、あった、あった、書棚の隅から昭和43年度の会員名簿が出てきました。
昭和43年、当時の東北支部の会員は27社でした。現在、平成16年度の名簿では48社になっていますが、古い名簿をよくよく見ると、当時の同期で現在も元気に頑張っていて、東北支部総会などで顔を合わせるのは、元東北支部長の昭和電装(株)の田辺直毅さん、元理事の(有)岩手広装の熊谷浩さんの二人だけになってしまいました。その当時の支部長さんは小高中二さん。東北支部の会員は元気のいい人が多く、秋田県の沢口三郎さん、岩手県の熊谷貢さん、宮城県の田辺直毅さん、山形県の飛塚純吉さんらと支部総会で顔を合わせ、支部運営の事、また「電気工事士」があってどうして「ネオン工事士」がないのかなど仕事の話で時間の経つのも忘れる程盛り上がった事が今は懐かしい思い出の一コマになっています。時の流れには逆らえないが、世代交代の若い人達に混じり、もう少し頑張らせてもらおうと思ってます。
25歳で独立して以来43年、ネオン一筋。うちの会社のキャッチフレーズは「小さい看板から大きい看板、広告塔からネオンまで」それこそ数え切れないくらい仕事をやってきました。
オイルショック後の49年、事故で一年以上入院したんですが、退院後リハビリをする予定が、どうしても仕事に出てきてくれと、監督だけでもいいからなんて、ひっぱりだされて仕事に復帰しました。それ以来ずっと無事故を通しています。安全第一。お客様に無理を言われてもそれだけはゆずれません。
それでも40年前のネオン工事と現在のネオン工事はさほど変わっていません。インバータトランスの取り付け方や配線もあまり変わったところはないのですが、LEDなどは新しくなり、照度が上がり明るくなりました。グリーンの色も出て昼間見てもテレビより明るく見ることができるようになりました。信号機などは電球よりも遙かに遠くからもはっきり見えるようになりました。
また、今ではアクリル板よりFFシートの需要が大幅に増え、看板の文字書き職人の替わりに若い女性でもコンピュータでインクジェットを使って文字から絵まで何でもござれに変わったのに少々驚きました。
もっと驚いたのは全国的に景観条例なるものがでてきて、役所の許可申請があまりにも難しくなり、許可が出るまでの時間の掛かることが夥しいことです。
景観条例、景観条例とうるさく言う割には街の交差点という交差点にあまり見てくれの良くない案内看板の多い事。これも景観に入らないのか本当に不思議に思われます。一寸考えただけでもまだ色々あるがそれはそれとして、43年度の同期の田辺さんと熊谷さんと共にもう少し現役で頑張ってみようと思う今日この頃です。
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