私は、昭和41年4月にある広告代理店へ就職を致しました。そのころは、現在の「広告代理店」というような近代的なシャレたものでなく、実態は、旧態依然としたスペースブローカーの「広告屋」でした。そんな中でテレビ、新聞、雑誌の広告主を開拓するスポンサー営業をしていました。当時としては、特にテレビの仕事は華やかで皆がやりたがった部門でした。私は、入社して3年目に塩野義製薬を担当し、テレビ番組の企画、制作、コマーシャルフィルムの制作など営業マンではなかなかやらせてもらえない仕事まで幅広くやらせてもらいました。そのお陰で入社6年という短い期間でこの業界のプロ的存在にまでなることが出来、毎日毎日充実した日々を過ごしていました。
ちょうどその頃、親戚の紹介で見合い話が持ち上がり、お互いの仕事の都合上2年後の昭和48年4月に結婚を致しました。
その相手が、現在私が勤める「朝日電装株式会社」の創業者福城七生の次女でありました。
私は、義父の考え(私を自分の会社に入れたいという)が充分読めていましたが、8年間の経験と知識を生かし、今後もマスメディアの世界で一生生き抜くと、強く心に決めていましたし周りの仲間にも公言しておりました。
結婚して半年後の昭和48年秋、義父の業界は大変な事態に陥りました。
昭和48年11月20日のオイルショックによる電力使用制限であります。
当時マスメディアで生きていた人たちは、それほど事の重大さを感じていないのが実態でした。
しかし、ネオン業界では生死に拘わる大変な問題だと聞かされ、ひとごとながら心配を致しました。全日本ネオン協会の当時の役員の方々と一緒に義父も電力制限対策委員長として、必死の思いでその使用制限撤廃に奔走していました。
私も自分の仕事の合間を見ては、テレビの放映時間、視聴率などの資料から全国の家庭で視られている「テレビ」の総消費電力量を算出し、如何に「ネオン」の総消費電力が少ないかという資料作りで協力したことを今でも覚えております。
義父は週に一度のペースで上京し私共の家をホテル代わりに、先の見えない「電力使用制限撤廃」へ、毎日毎日関係官庁、関係団体への陳情活動が続きました。その並々ならぬ努力を見ているうちに、私には自分の妻、周りの家族の幸せのためにも義父へ出来る限りの協力をしなければいけないのかなあという気持ちの変化が生まれ始めました。しかしもう一方では「屋外広告の価値」を私自身あまり認めていませんでした。やはり、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌のマスメディアの力は、比べものにならないほど大きいものと確信しておりました。私は、当時(昭和五十年頃)屋外広告は、30年後には高層建築が建ち並びなくなってしまうと確信しておりましたし、マスメディアで生きてきただけ余計に屋外広告の業界を馬鹿にしていました。(今は逆に屋外広告の価値をアピールしていますが…)
オイルショックの影響は、考えていたより時間のかかる深刻な問題に発展していき、義父は、自社の存続すら危うくなると考えたのか、最悪の状態にならないうちに社員を3分の1程度に縮小したようでした。その早すぎるのではと思うぐらい思い切った行動を起こすのが小企業の経営者だと、その判断力の速さに感心をしました。
その頃からことあるごとに義父の口から「牛尾になるより鶏頭になれ」という言葉を聴かされました。つまり「うちの会社に来い」という誘いでした。しかし、将来が見えている企業に入ってもという考えと、なかなか難しい、特殊技術のいる職種への転職には時期が遅すぎると気が進みませんでした。
電力制限の解除が見え始めた昭和51年5月、義父の行動力、決断力、誠実心、克己心が私をネオン屋に就職させてしまいました。
昭和51年7月3日2年半ぶりに「通天閣」に灯がともり時間制限の緩和へと長い闇の世界から明るい平和な社会に戻り始めました。
約3年間のオイルショックがもたらした影響は、私をいつの間にか転職の決意をさせてしまったのです。
私のこれからの人生はこの昭和51年5月1日ではっきりと決まりました。
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