第二次大戦後、敗戦国となったドイツは連合軍によって占領され、東西に分断された。首都ベルリンは4カ国の管理下に置かれることになり米、英、仏が管理する西ベルリンは東ドイツの中にポツリと浮かぶ西ドイツの離れ小島のようになった。
こうして西ドイツと東ドイツという2つの国家が生まれ、1961年に壁が建設されるまでに東ドイツ市民の6分の1が西側に逃げて来た。危機感を抱いた東ドイツ首脳部によって、「壁を作って東西の人の行き来を拒む」目的で壁が作られた。最初は鉄条網で分断されていたが、後に3mの高さのコンクリートの壁となった。
28年ほどを経て、ソ連でペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)をスローガンとする国内改革が実施され、1989年には東ドイツでも民主化運動が激化し、国境ゲートが解放され事実上のベルリンの壁の崩壊が始まった。
その後東西ドイツは統一された。ベルリンの壁はほとんど撤去されたが、壁の一部は記念碑として残され、場所によって壁の解説や壁建設後の犠牲者、ナチの犯した様々な事が解説された。壁が撤去された部分には、場所と時代がわかるようなプレートが埋め込まれ、一部ではベルリンの壁崩壊直後にコンクリート剥き出しの壁に世界中からのアーティストが、希望、自由、政治的なテーマを主題とした個性あふれる壁画で埋めている。このようにベルリンの壁の跡地は、様々な情報を後世に伝える役割を果たしている。
今や世界的な観光地として多くの人が訪れている。これは世界史の中でも重要な「人類の負の遺産」ともいえるが、過去の遺跡による見てすぐわかるベルリンの壁跡の記念碑は、歴史を通して未来の平和を人々に考えさせる偉大な情報である。