Vol.31
 私のネオン屋稼業奮戦記 
     北陸支部  コロナネオン株式会社  代表取締役  小杉光男さん
小杉光男さん

 この度は小生がこの奮戦記に原稿を書くに当り 大変恐縮しております。
 小生がこの会社に入ったのは今から30数年前、 18歳の頃です。自分はどのような仕事に向いてい るのかと思ううちに、街並みの中の看板に目が止 まったのと、デザインの方に興味を持ったのが始 まりでありました。
 屋外広告業の道へと進みましたが、当時は屋外 広告業といっても、ペンキ描きの看板も沢山あり ましたから、その頃金沢で文字と絵のうまさでは 1、2を争うといわれた「八十島工芸」に入社い たしました。
 まだまだ日本が復興に向かう時代でヘルスセン ターがおおもての頃のこと、動物園の中のバック 風景の絵などをよく描いたものでした。
 まだまだ日本が復興に向かう時代でヘルスセン ターがおおもての頃のこと、動物園の中のバック 風景の絵などをよく描いたものでした。
 ライオンや虎のオリ中の仕事もあり、大変恐い 思いもしながらも描きあげると、おやじさんと一 緒にヘルスセンターの大きな風呂に入らせてもら うのが楽しみだった事が今も懐かしい限りです。
 そこでデザイン製作、取り付けと看板業の一か ら勉強いたしました。  それから2、3年後、同じデザイン勉強仲間に誘 われて当社に入社いたしました。そこではじめて ネオンの光の美しさ、華やかさ、明るさを知った 訳であります。
 そこでデザイン製作、取り付けと看板業の一か ら勉強いたしました。  それから2、3年後、同じデザイン勉強仲間に誘 われて当社に入社いたしました。そこではじめて ネオンの光の美しさ、華やかさ、明るさを知った 訳であります。
 屋上の広告塔、壁面サイン、店内のサインなど 様々の仕事に携わったことは今振り返ってもなつ かしい思い出であります。現在でこそガソリンス タンドにはネオンサインは全く使われておりませ んが、昭和35年あたりはガソリンスタンドにネオ ンサインが盛んに取り入れられておりましたか ら、石川県は言うに及ばず福井、富山、岐阜まで も出かけていきました。

 その後、オイルショックとなり、一時は国をあ げて省エネということでネオンの仕事が極端に減 ってしまったのです。会社の最も苦しい時代だっ たと思いますが、他の仕事、ペイントやプラスチ ックの電照看板などが増えてどうやらしのいだ様 子でした。しかし、徐々に息を吹き返したのも、 ネオンサインの持つあの華やかさが人々の心を魅 了してやまないからでありましょう。
 その後、先代社長の松田氏が病いを得て社長職 を退くにあたり、当時8名程の社員の中で、私は 主にデザイン、営業を担当していたことから、こ の私に白羽の矢がたち、二代目社長に就任いたし ました。
 時代が進むにつれ、看板部門はコンピュータの 普及によりずいぶんスピードアップされました が、反面人の手を必要としない部分が増えてまい りました。若干の淋しさを感じているものであり ます。
 若かりし頃より、街の中でひとつひとつ手をか けて作り上げた看板に出会うたびに、これまでの 道のりを思い、ネオン加工は、今尚人の手により、 そしてその技術によって街を彩り、人を呼んでい る存在だとあらためて思うのであります。
 当節、声をかけて頂く仕事はむろん喜んでさせ ていただきますが、お客様の要望に沿い、その店 や建物にぴったりとした雰囲気や華やかさを演出 できればネオン屋冥利につきると考えています。
 モノを作り上げていく手応えというものはやは り面白く、あえてネオン屋の精神でもって今後も 協力しあって歩んでいきたい心境であります。
 最後にネオン協会のご発展を願い、お客様に喜 んで頂ける仕事をしていきたいと、自らにも言い 聞かせております。

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