Empty(空っぽ)という感覚

ラウンドアバウト

例えば議長がいて会議をしています。こんなことをよく言いますね。「あの件に関してはそのような方向で処理しますがよろしいでしょうか」と。それで一同合意。日本人の発言は主語が分かりにくいし、目的もはっきりしないので、国際会議などでは不都合だとよく言われるのですが、よく考えてみると案外と捨てたものではない。口に出していうのがはばかられることは少なくないもので、それを口に出さないで一同が合意できるという仕組みは、プリミティブなことではなくて、とても高度なデリケートなコミュニケーションだと考えた方がいいと思います。

別の言い方をするとこういうことです。交差点を作ってしまうと、信号が絶対いる。フォーカスポイントを作ってしまうと必ず信号が必要になってくるんですが、間をエンプティにしておくと融通が効きます。たとえばラウンダーバードのように、信号がなくても行ける。交差点を作らないで空っぽにしておくことによってコミュニケーションが円滑になっていくということは実は多様にあると思います。

赤い丸

これは赤い丸です。赤い丸を日の丸と見る人もいますが、赤い丸に本来意味なんてない。赤い丸はただの赤い丸で、それ以上でもそれ以下でもない。でも日本は赤い丸を国旗として使っている。あるときにはこの中に愛国心とか天皇制とか国家総動員法とかが入ってきて、これをみて敬礼をして戦争などの悲劇的な歴史が入り込んでしまったものだから、ただの空っぽの器であるはずの赤い丸の中にいろんなものが入っちゃった。

中国に行って、僕は戦後生まれなのでこの赤い丸は平和のシンボルだと教わっていますと話すと場内がざわざわする。そうは思ってない人がいる。これを額に巻いて戦争したりいろんな歴史的な事実がここに注ぎ込まれているので、そういう意味やイメージや記憶がこの赤い丸から想起されてもしかたがない。

赤い丸を平和国家だと思う人もいれば、ご飯の上の梅干しだと思う人もいれば、太陽だと思う人もいるかもしれない。赤い心、ハートだと思う人がいるかもしれない。それはまったく自由なんです。つまりシンボルという物のパワーはどのようなものも受け入れ、どんな解釈をも引き受けるという受容力の大きさなんです。国旗は強靱でどのような批判にも動じないで翻っている。

オリンピックで金メダルを取った選手の後ろで例えば日本の国旗が翻ると、それはあらゆる人の考えや思惑を受けとめてものすごい求心力を生み出して儀式を成立させている。思いを凝縮させる、注目を集めているというところにシンボルのパワーがある。是非を問わないが、コミュニケーションを生み出している。これがコミュニケーションのひとつの原像ではないかと思います。

空っぽとシンプル

空っぽとシンプルは似ているようで違います。シンプルというのは物事の合理性に立脚した近代のアイデアです。シンプルというのは誤解をおそれずに言うと150年前に生まれた。

世界というものは複雑から始まっているんですね。一番初めにできた青銅器は、お茶碗みたいなプレーンなものではなくて、いきなり複雑な形をしている。何故かというとものを生み出すということは、力を生み出すことでもあったからです。共同体というものは王とか豪族の長とか強い人が真ん中にいて統括されていた。だから強い組織を保つために強い力を表象するオーラを持ったメディアが必要だった訳です。

簡単にいうと人々に「すげ~」と思わせるものが必要だった。青銅器は形も、その表面をおおう紋様もとても複雑で緻密です。熟練した技能を持った人が長時間かけて達成しなければできないような複雑さをまとっている。その方がみんなが見てすごいと思いますから、いきなりそこを目指してものが作られたんですね。要するにフォースを表現しておかないと緊張感がゆるんで国や組織の求心力が弱まって、すぐに隣国に侵略されてしまうような状況だったので、こういうものが必要だったんですね。

中国も、イスラムもインドもいずれも稠密な装飾の文化を展開してきたのは、この力の表象という点が機能してきたからです。フランスで一番王様が強かったのはルイ14世の時代ですね。王権を示すためにバロックやロココがすごく発達していた。フランス革命が1789年、そこから急に変わってきた。いちど帝政に戻ったりしながらもだんだん市民社会がやってくるんですね。つまり王様の時代が終わり国民国家、近代社会になってくる。個の人間が主体になってくるわけですから、自由に個の人間の責任において何をやってもいいという社会になってきた。これが近代というものです。

それまではものは「偉」や「力」を表現するために作られてきたのでものは複雑に作られてきたのですが、急にそうではなくなる。人間とものの関係、人間と素材や製法や技術の関係が合理的に、最短距離に、ものすごく簡潔にとらえられるようになってきた。これが近代。わずか150年前のこと。そこにシンプルという概念がでてきた。

シンプルというのは複雑さ、相克から生まれたものですから、いきなりシンプルはないです。昔の石器は簡単な形をしているかもしれませんがこれはシンプルではなくて「プリミティブ」原始的で複雑を経ていない状態ですね。シンプルは複雑で混沌でどうしようもない状態を経て、むしろそれを捨象して理性的にものと形の最短距離を見立てていく、そういう知性ですから。

世界の中に近代という時代が起こったと同時にシンプルは世界中に広まってきた。日本にも西洋からシンプルはやってきた。しかしながら、150年前に始まった西洋近代のシンプルをさかのぼること300年ぐらい前に日本はもう少し別の簡素さを手に入れていました。実は日本は西洋と全く違うルートでシンプルに到達しているんです。

僕がよく使う地図で、高野孟さんの「世界地図の読み方」という本を参考にしたものがありますが、ユーラシア大陸を90°回転させた図です。こうするとユーラシア大陸はパチンコ台のように見える。日本は一番下の受け皿の位置にあります。そうするとローマのあたりから玉がチンジャラチンジャラ受け皿に向かってどんどん落ちてくる。

シルクロードを通って中国を通って、韓国を通って文化は伝播されたと言われますが、それはその中の首要な道筋のひとつに過ぎなくて、海のシルクロードを通ってきたかもしれないし、ロシア経由もあったろうし、椰子の実のように太平洋から漂着したものもあったでしょう。ポリネシア建築もそうですね。日本は世界中から影響を受けた。

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