Empty(空っぽ)という感覚

応仁の乱以降の美意識

世界は複雑で出来ていますから、日本はローマや中国やインドの複雑さも全部引き受けて奈良時代も鎌倉も絢爛な文化を引き継いでやってきたわけです。だから日本の文化は案外と派手で艶やかだったはずです。しかしその絢爛な文化を一度ご破算にしなければならない局面に陥った。

それはなにかというと「応仁の乱」。室町末期、足利義政の時代に起こったんですが、第二次大戦とか明治維新と同じくらいの大きな動乱で、政治的にはあまり大きな意味はないのですが、文化的な喪失という意味では甚大なものがあった。京都中が焼けたんですね。きらびやかだった日本の文化の大半が、伽藍も巻物も書も仏像も着物も全部焼けた。

これはとても大きな損失で、気まぐれな文化人であった義政は嫌気がさして家督を息子に譲って東山の方に隠居し、美に耽溺して暮らしていく訳です。しかしながら一方で義政はとてもセンスのいい人だった。東山に隠遁した義政の周辺にふわっと新しい文化が生まれた。一回リセットされた日本の中に新しい美意識が生まれてきた。

この中に簡素、エンプティな美が育まれたんですね。日本の美術の歴史の中ではそういうことを「国風化」といいますが、日本の美意識のオリジナリティがそこで生まれてくるんですね。どういう風に生まれてきたかというのは推測するしかありませんが、パチンコ玉の受け皿ですからいろんなものの影響を受けたんですが、一回そういうものを捨象して、むしろ豪華さの対極である、何もないプレーンさの中に独特の美意識を見いだそうという気持ちがわいたんじゃないかなと思います。

これは義政がたくさん時間を過ごしたという、銀閣寺の中の同仁斎という書斎です。ここには、和室と呼ばれているもののすべての原型がある。障子もほぼ完成しています。障子を持つことによって光は窓からの直接光ではなく、面光源になってここに差し込むという非常にデリケートな空間ができました。デスクトップは帳台と呼ばれるものです。ここから窓が直接開くんです。庭が掛け軸の絵のように切り取られている。とてもエレガントですね。飾り棚があって、ものすごくシンプルで美しい。書院作りがここで生まれた。

茶の湯というのはとても簡素な空間で、亭主と客がまったくエンプティな空間で向き合ってお茶を介してコミュニケーションする。茶室というのはエンプティで空っぽであればあるほどいいと言われている。唯一道具があるとすると、生け花、茶道具、あと掛け軸ですね。花の活け方や軸の選び方でそこにどんなイマジネーションを持ち込むかというのが茶の湯。水盤に水を張ってその表面に桜の花びらを散らすだけで、そこは満開の桜の木の下に二人で座ってますよ、なんてイメージを共有し合うわけです。

つまり空っぽのメタフォリカルな劇場なんですね。満開の桜をごく僅かなしつらいでやる。亭主と客の間でイメージを交感していく。そういうことが茶の湯のイマジネーションですね。こういう仕組みを完成させた人が利休ですね。義政の時代の村田珠光にはじまって武野紹鴎に受け継がれ利休で完成する。室町後期から桃山にかけて茶の湯というものが完成されてくる。簡素、エンプティ、空っぽであるからそこに多大なイメージを持ち込める。空っぽであるからそこにどんなイメージが入ってもかまわないという自在性をフルに運用し始めるのがこのころです。

エンプティとシンプルの違い

日本人の簡素、エンプティを運用する美意識というのは今日も生きているんです。それは今も僕らの感覚の中に息づいていて、使われるのを待っている状態でもあると言ってもいいかもしれません。

義政の書斎「同仁斎」の写真は実は無印良品のポスターで、無印良品の茶碗がその国宝の空間の中にぽんとある。ここには美意識の連携があります。無印良品の茶碗には簡素だけれど、簡素だからこそリッチに負けない点をもつというコンセプトがあります。その点は、同仁斎と同じですね。無印良品はシンプルではなくてエンプティなんです。つまり西洋流の合理主義から生まれた道具の形というよりもエンプティ、つまり使う人がどんな用途にも見立てられるという自在性に立脚している。簡素ではありますが、シンプルではない。

これは足つきマットレスという布団とベッドの中間のようなもの。ソファーとしても使える多義性に富んでいる。満開の桜の木の下にもなりうるし、波打ち際にもなりうる、茶室と同じようなフレキシビリティがそこにあるわけです。

これはヨーロッパでできたシンプルの代表、ヘンケルのナイフです。きちっとしたデザインで持っただけでグリップの親指の位置がびしっときまる。これは西洋の合理主義で形と素材を非常に良く吟味して作った人間工学的なアプローチの一つの成果だと思います。

一方でこれは日本の柳刃包丁ですね。グリップに全く起伏がありません。手の握りもまったくない、プレーンそのもの。親指をどこにおいたらいいかまったく分からない。逆に言うとどこを持ってもいい。ヘンケルのナイフを持つ人とこの包丁を握る人は違いますね。日本の板さんはものすごい超絶技術の持ち主ですね。それはどこを持ってもかまわないというグリップに秘密があるのです。

刃の使い方で持ち方は変わるし、包丁を研いで刃が短くなると持つ位置も変わってくる。卓越した技術の全てをこのプレーンな柄が受け止めるということです。この2つの刃物の中にシンプルとエンプティの発想の根幹における違いを理解していただけたのではないでしょうか。

無印良品は1980年にできた。当時はバブルで贅沢品が溢れていたんですが、リッチに対抗するためにむしろ簡素、そぎ落としてしまうことによって、リッチなものに勝てるものができるんじゃないかということで誕生したブランドというか、製品なんですね。無形のものに人々の意識を結実させる力があるという意味ではブランドのようなものですが、その人気を価格に反映させないという点ではブランドの原理とはまったく違う。

MUJIはエンプティ

無印良品の品質のひとつは自在性にあります。18歳の若者が新生活始めるためにいいなと思う、その同じテーブルを60歳の熟年夫婦が見て寝室に置くのにいいなと思う。若者向けにシンプルなテーブルをつくり、熟年者向けにテイストの異なる別のテーブルをつくるのではない。同じひとつのテーブルを人のどのような見立てにも対応できるようにつくる。これは簡単ではありません。エンプティたろうとエネルギーを込めてこんなものを作っているのです。

無印良品のファンというのは世界中にいて、その解釈はまちまちです。ある人はエコロジーだと思っている。ある人は都会的洗練だととらえているし、ある人は日本の禅の思想だと思い、またある人は「ノーデザイン」だと思っている。またある人は値段が安いところが気楽でいいやと思っている。

だけど無印良品はそれに対してイエスと言わないわけです。ある見立てに応じて「MUJIはエコです」言った瞬間に、値段が安いと思っている人はなに偉そうなこといっているんだと思ってしまう。無印のコミュニケーションも製品の作り方と一緒にエンプティを目指しているんです。

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