カサブランカ

Photo by 五反田三丁目三四番地

林望(作家)

どういうわけか、私の脳みその古い部分に焼き付いている一つの風景がある。あれはたぶん五反田の駅のホームから見た風景だったと思われる。私がまだ小学校低学年のころだから、今から50年も昔のことになる。

当時東急池上線沿線に住んでいたので、しばしば五反田の駅で山手線から乗り換えたのである。私と年子の兄とは、駅のホームを長々とした貨物列車が通過していくと、その連結された貨車の数を、大きな声で数え上げた。当時はまだ鉄道の黄金時代で、貨車は30でも40でも連なって通過していったものだ。

たまたま夜のホームに立って貨車を数えていると、その線路の向う(五反田駅のホームは高架になっていて地上3階くらいの高さにあった)に、「カサブランカ」というネオンサインが明滅していたことが、なぜかはっきりと記憶に残っている。

カサブランカ、という名題の通り、たしかそれは白い色のネオンで、アラビア風の家並やら椰子の木のような形やらが、ちょうど空中に浮いているように見えた。おそらくキャバレーかダンスホールか、いずれそういうようなものだったかと思われる。
今思えば、たぶんハンフリー・ボガートとイングリット・バーグマンのあの名画『カサブランカ』に因んだ命名だったに違いないのだが、当時はもちろんそんなことは知らなかった。

好奇心の塊であった私は、このカサブランカという意味も解らぬ文字と絵がついたり消えたりするのを飽かず眺めては、面白いなあと思った。ただそれだけのことで、なにも意味のない記憶のようだが、50年間もはっきりと像を結んだまま記憶しているところをみると、きっと私の心のなかでは何らかの大きな意味があったのに違いない。が、それが何であったかはもう分からない。

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