原研哉
2009年5月12日
関東ネオン業合同組合第51回総会記念講演会
日本人のコミュニケーションの源流
みなさんこんにちは。日本人は「あうんの呼吸」という、説明しなくても分かりあえる大変特徴的なコミュニケーションの方法を持っています。最近ではインターネットの普及でネット空間の中で、みんなが同時に何かを感じてしまうということが起こり始めてきています。空気読めないなどという言葉もありますが、そういうことは実は非常に高度なコミュニケーションではないかと思います。
そのようなコミュニケーションがどういう仕組みで行われているかを源流を遡りながらきちんと把握していくことで、日本だけではなく、世界で機能させていく、新しいコミュニケーションの局面をリードできるのではないかと考えています。
今回の内容はシリコンバレーのグーグル本社でも講演しました。海外の若い人たちが、日本のあうんの呼吸が分かるかというと、意外にこれは分かる。グーグルの場合はネット環境の中に空っぽの箱だけを置いて他の人が勝手にそこの中身を埋めてくれることでどんどんビジネスが成立しているわけですから。七面倒くさいメッセージを細かく構築するよりも空っぽの箱を置いといて、みんなでイメージや意味を投げ合いながら意志を疎通させていけば自ずと社会全体が動いていくということを彼らはよく分かっているんですね。
デザインは土壌作りが大切
デザインというものは土壌から生えた木に成った実のようなもので、この実の品質がデザインの品質なのです。実を良くしようと付加価値をいろいろつけるんですが、土壌が良くないと駄目で、日本という経済文化圏に生えた木に成った実をよくしようと思ったらその木が生きている土壌の質をよくしないといけない。土壌の質とは生活者が何を求めているかという欲望の水準のことです。
デザインというのは、この土壌の質にいかに影響を与えられるかという観点も大事で、そんなことを考えながらデザインをしています。
Empty(空っぽ)
「Empty」。あえて英語で言っているのは「空(くう)」なんていうと妙に禅味を帯びてしまうので、英語にすることで突き放した概念としてご理解いただけると思います。空っぽということです。
昔の日本人の自然観は、人間の中に知恵があるのではなくて、自然の中に知恵があると考えたわけです。神は教会の中に居るのではなく、山の上や田んぼの中、海の中などを漂泊している。あまねくあらゆる所に神様がいて、叡智があると。それを人間が汲み取りながら生かされている。八百万の神というのはそういうことですね。ひと粒のお米の中にも7人の神がいる。
これはみなさんよくご存じの形ですが。日本の神道の原型というのはこんなものが真ん中にあり、四つの柱を立ててひもで結ぶと空っぽの空間ができます。これを代(しろ)というんです。
自然の中をふらふらしている神様をなんとかして呼び出したい。こんな風に、空っぽの場所を作ることによって、神がその空っぽを見つけて入って来てくれるかもしれない。空っぽとは満たされる可能性そのものですから。その可能性に対して手を合わせて拝む。
この空っぽの台に屋根をつけると社(やしろ)。屋根つきの代(しろ)つまりルーフ付きのエンプティというのが社。これが神社の中心にあるわけですね。
神社の入り口には鳥居。鳥居も真ん中が空っぽですね。そこから入りなさい、あるいは出なさいという意味が生まれてくるわけです。透垣(すがき)という閉塞性のない、垣が巡らされて真ん中に空っぽがたたえられている。鳥居という入り口を次々に通って神様が入るかもしれないという可能性のある社に至って、そこで手を合わせて拝む。それは自分の気持ちをその中心たる空っぽの中に入れる、ということでもあります。空っぽのものを介してコミュニケーションすることを育んできた。それを一つの文化の根底においている。
伊勢神宮の式年遷宮
伊勢神宮も同じですね。鳥居を入ると、真ん中に空っぽのお社があってそこに対して拝みます。
伊勢神宮の社の敷地の隣にもう一つ別の空っぽの場所がある。ご存じだと思いますが、伊勢神宮では20年に一度式年遷宮というのをやるんです。今の社を全部壊して、隣にまったく同じものを作る。もとあったところをなにもない地面に戻して。また20年たつと、隣の社を全部壊して再び同じ物をつくる。こういうことを千数百年やってきている。実に不思議なことで、なぜこんな事を繰り返してきたんだろうと思います。
コップの水を同じ大きさの別のコップにそっくり移しかえるようなもので、それを千数年の間繰り返しやってきているようなものですね。図面もきちんと描き直して大工さんが同じものをつくる。神具も全部作り直している。
20年に一度ということは大工さんは一回は棟梁を勤めるが、次は弟子が棟梁になってやる。この繰り返しですね、当然微妙な差異が生まれますね。普通保存する場合、世界遺産にして一切触っちゃいけないというのが西洋流ですが、日本人は全部作り直して更新させることが伝えるということだと思ったわけです。そこがとても面白い。
大工も千数百年それをやっている。同じものを反復してやっているのですが、コップの水でもコップからコップへ移すときに全部を移しきれなくて数滴は必ず残ってしまう。永遠とこれを繰り返すうちに少しずつ水の中身が変わっていって、やがて中身がまったく変わっているかもしれませんね。同じものが入っているというリアリティよりも繰り返され更新されていくことによって何か大事なものがきちんとそこに伝えられているという発想、そこが面白いですね。
実は生命も同じ事をやっているんですね。DNAを伝えているうちにミスリーディングが起こって、そこに突然変異が発生する。どうやらそれを前提に、DNAの二重らせんというのはことさら複雑で、ミスリーディングが起こりやすくなっているようです。そうやって変化したものが環境に適応して進化が起こっていく、つまり更新して読み替えられていくうちに適応や変化が起るような、そういう創造的な更新が生命ではおこなわれているわけですね。
伊勢神宮も同じように進化してきた。日本というのは世界中の影響を受けているので、日本オリジナルのものが発展してきた訳ではなく、韓国風や中国風や、インド風であったりする。伊勢神宮の建築は太平洋のポリネシア風の建築様式の影響を受けていると思いますね。それが千数百年の式年造替を経ることによってとても日本風なものに変わってきている。屋根の反りや丸太の使い方が微妙に。こうしたほうがいいんじゃないかという目に見えないくらいのごくわずかの意志が働いて、それが積もり積もって変わってきている。そこにとても日本的なものが発現してきている。そんなふうに考えてみるととても面白いと思います。