サインをめぐる冒険

ジュリエット ©20th Centry Studios

サインの守備範囲

サインってそもそも何か?というあたりに考えをめぐらせてみたことがある。思いがけず、その守備範囲の広さに呆然とさせられた。なにしろ、考えれば考えるほどそれは広がっていくし、進めば進むほどそれは遠ざかっていくのだ。その時のことを振り返ってみたい。

サインといえばまずは看板だが、看板以外にも、ネオンサイン、箱文字や切文字、あるいは壁面に直接描かれたものもサインである。また広告以外にも、道路の標識だとかもサインである。形だけではない。信号の色もサインである。また野球でのベンチ脇のジェスチャー、つまり動きもやはりサインだ。視覚だけではない。電車の発車合図や救急車のサイレンは音声のサインである。モールス符号もサインである。人為的なものに限らず自然の中にも、たとえば暗い雲は嵐のサインだったり、のどの痛みは風邪のサインだったりする。

記号、符号、符牒、合図、マーク、アイコン、シンボル、暗号、前兆、文字、名前、言葉、そういったものどれもがサインとしての側面があるのだ。

名前って何?

上に「名前」を挙げたが、名前といえばロミオとジュリエットでこんな台詞がある。

「名前って何?バラと呼ばれるあの花が別の名になっても、甘い香りは変わらないわ」

たしかに、バラがたとえばラバという名前になったところで、花がいなないたりするわけではない。「名は体を表す」とはいうものの、名前とその対象のつながりはテキトー(必然性なし)だ。ジュリエットのモノローグから300年のち、この発想は言語学の第一人者ソシュールによって解き明かされる。

サインSignとシーニュSigne

彼は言う。言葉(記号)には意味がある。音声と意味がセットになって、はじめて言葉は機能する。専門用語でこの音声をシニフィアン(記号表現)、意味をシニフィエ(記号内容)と言う。

バラを例にとると、シニフィアンは「BARAという音声」で、シニフィエは「きれいで甘い香りのするトゲを持つ花のイメージ」だ。そして、シニフィアンとシニフィエのセットをシーニュ(signe:フランス語)という。この「概念の単位」としてのシーニュは専門用語でもあるし、英語のsignとほぼ同じ意味もまた持っている。

テキトーなつながり

シーニュのつながりはテキトー(恣意的)なのが特徴だという。どういうことか。たとえば群像劇の脚本を書くことになって、登場人物の名前をつけていくとする。ここでもっとも大事なことは、名前がカブらないことだ。もちろん、それぞれのキャラクターにふさわしい名前をつけられればそれに越したことはないけど、極論、なんでもいいともいえる。つまり、キャラクターとその名前の関係はテキトーなのだ。シーニュもそれと同じである。テキトーなので時代とともに変化もするし、言葉が生きているといわれるゆえんである。

テキトーなのはまた単語(シーニュ)の中だけではない。同じ言語内の別の単語との兼ね合いもテキトーなのだ。

「海にそそぐ川」と「川にそそぐ川」はフランス語では別の単語だけど、日本語ではどちらも同じ「川」だ。日本語には英語の「beef」にあたる単語はないし、英語には日本語の「湯」にあたる単語はない。湯と水を分けなければならない必然性は特にないところを、言語によってはテキトーに分けたり分けなかったりしているのだ。

「いってきます」「ごちそうさまでした」「もったいない」は日本語にしかない概念である。また「雪」の意味は、「雨」「あられ」「ひょう」とは違うということから決まる。あらかじめ決まった対象があるのではなく、体系の中の差異から意味が導き出されるのだ。

逆だった!

言葉とは、もともとある物や概念の呼び名ではなかったのだ。逆なのだった。私たちの側が言葉をカブらないように使って、森羅万象から物や概念を切り取っていたのだ。

つまり、私たちの側が、サインを用いて物や概念を作っていたのだ。このことがわかったときは、まさに大どんでん返しをくらった気分だった。サインってなんか、とにかくすごい。

横田右近
エディター
「武蔵野から編集室」にて、企画・編集・デザイン・web制作などを行っている

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