30才でデザイナーを志した私

私は情報デザイナーとして、東京ミッドタウン、グランフロント大阪、JRゲートタワー、有明ガーデン、羽田イノベーションシティ、えちぜん鉄道などのトータルサイン計画のプロジェクトに参加してきました。他にも、プロダクトデザイン、イラスト、写真、ブックデザイン、エッセーなど、情報に関するデザインを行っております。事務所は2023年現在9名で活動し、お陰様で国内外の多くの方から仕事の依頼をいただいております。

このような私ですが、自分がデザイナーになるとは、家族や友人達、私自身も、誰一人思っていませんでした。20代の終わりにサインデザインと出会い、この仕事を人生の生業にすると決めて、30才になりデザイナーを志しました。

生まれは三重県鈴鹿市です。父はHondaに勤め鈴鹿サーキットのマネージャーをしていました。14歳の時、父の転勤に伴い家族でハワイへ移住し、19才まで過ごしました。現地校は人種の坩堝で50ヶ国以上のさまざまな人が集まってくるので、言葉の壁に苦労しました。通った学校では国籍、肌の色、言葉、生活習慣が異なるため、いじめられたり喧嘩することもありました。嫌な人は言葉が分からなくても、本人が醸し出している第一印象で何となく理解できます。最初は何を言われているのか全然わからないのですが、3~5ヶ月すると、その言語の体系、コードが理解できる瞬間が訪れます。それはある日突然自転車に乗れるような感覚に近く、言葉がわからないことの悔しさ、わかった時の喜びを味わったと同時に、言語や「コミュニケーション」の不思議さ、また言語に頼らない雰囲気づくりの大切さを実感しました。

その時は「サインデザイン」という言葉があることも知らなかったのですが、振り返れば、このハワイ時代の苦い体験が「情報デザイナー」になる原点になっていると思います。

日本に帰国してからは、法政大学に入学し、法律を勉強しました。当時は日本経済がバブル絶頂期で、就職は引く手あまたでしたが、日本の社会にどうしても馴染むことが出来ず、就職活動を一切せずに大学を卒業しました。大学卒業後は、住み込みのバーテンダーや、ホテルマン、素行調査や交通量調査のアルバイト、土方など様々な職業を転々としました。25才で結婚をし、二人の娘が生まれ、この時期はとにかくお金がなく極貧でした。手取り15万円で家族4人を養っていたと記憶しています。現在は、多少裕福な生活ができるようになりましたが、いくらお金があっても、あの頃の貧乏生活は、身体に染みこんだ記憶として、今でも忘れることができません。

ただ、惨めだった記憶は少なく、若者だったら避けて通れない通過儀礼だと当時は考えていました。この時期はとにかく多くの本を読みました。ハワイで感じた「コミュケーション」の不思議さが、その後も自分にとって大きな課題になっていたので、国内外の文学をはじめ、戯曲、言語学、哲学、記号学、現象学、心理学など「コミュニケーション」に結びつく事を独学で勉強しました。その後、20代の終わりに妻の進めで印刷のアルバイトをすることになり、その時に初めて「サインデザイン」の存在を知ります。「サイン」の主な目的は見知らぬ土地で人を正しく導くことです。14才で始めてハワイを訪れた体験がフラッシュバックし、この仕事を人生の生業にすることを決意しました。当時30才でした。

30才でデザイナーを志した人は、少ないのではないでしょうか。私の周りで一人としておらず、現役のデザイナーは全て美術学校でデザインを勉強してきた人達です。一方、私は全くの無学でした。しかし、生活もあり家族を養わないといけないので、今から美術学校に行くわけにはいきませんでした。実践から学ぶしか方法はないと感じ、午前中は看板屋さんで修行をし、午後はインテリアデザイン事務所でアルバイトをし、毎週末は図書館で棚にあるデザインやアートの書籍を片っ端から読破して勉強する日々を続けました。そんな事で本当にプロフェッショナルのデザイナーになれるか不安だったのですが、その時に思想家の吉本隆明が執筆した「悪人正機」という書物に出会いました。吉本隆明の「10年やれば、だれでも一人前になれる、靴屋でも作家でも同じ、もうこれは保証してもいい、100パーセントものになる。ただし、10年やらなかったら、どんな天才でもダメ、9年8ヶ月でもダメ、一日の一分でも二分でもいいから途切れてはいけない、とにかく10年間休まず行うこと。その人の才能や資質が本当に問題になるのは、10年を超えてから」この言葉を読んで、勇気づけられました。

また、私のような経歴をもつデザイナーを知ったことも励みになりました。ティボール・カルマンというアメリカのデザイナーです。元々、ニューヨークの本屋に勤務していた経歴をもち、デザイン会社を設立後、ベネトンの雑誌『COLORS』のデザインの他、トーキングヘッズやローリングストーンズのLPジャケットのデザインを手掛けました。カルマンのデザインは、社会風刺やユーモアを交えたアイデアが豊富で、多くの人々の心を捉えました。

デザイナーを志してから、ちょうど10年を経過した頃、なんとか八島デザイン事務所を設立できました。30代の始めの頃は、デザインを独学で勉強してきたことは恥ずかしいと考え隠していました。デザインを勉強してきていない人にデザインを依頼することは、お客様にとっては不安だと想像したからです。事務所をスタートしてからは、隠すことを止めました。元々法律を勉強してきたので、お客様の要望を、弁護士の様に聞くことを心掛け、それまで勉強してきた「コミュニケーション」をデザインにも積極的に用いて提案をするように方向転換しました。相手の話をしっかり聞いて何を求めているのか核心を想像してからデザインを提案する、そして、依頼者のためだけに仕事をせず、その向こうにいる無名の人達を意識する、かつてハワイで苦しんだ自分を思い出して…。

事務所は今年で創業15年目に入りますが、今でもこの考えをもとに活動を継続しております。

八島 紀明(やしま としあき)
情報デザイナー、㈱八島デザイン事務所代表

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