財産は「人」「仲間」!

人に頼って頂ける様な会社に

当社は昭和35年9月に富士ネオン製作所として、先代が創業いたしました。元々は町の電気屋さんだった先々代から、新しいことを始めたいとネオンに着目し、東京都や山梨県のネオン屋さんに頭を下げ、仕事が終る夜間で良いのでと、場所もお借りし修行させて頂いたようです。

今ほど物が豊富にない時代、ゼロから物を作り出すことに、とても苦労したようです。
生前先代は、自分一人では何もできなかった、沢山の良き師匠や、仲間に出会い、支えて頂いたことで今がある。だからこそ仲間を大切にし、今度は「人に頼って頂ける様な人間、会社にしたいんだ」と口癖のように言っていました。先代はまだまだこれからと言う時に他界してしまいましたが、今でも私の心の中でモットーにしています。

いざ入社してみると

会社は先代が創業して60年を経過しておりますが、私は1992年に当時勤めていたNTT(当時日本電電公社入社)を退社し、富士ネオン㈱に入社いたしました。26歳の年です。前職では、料金計算~取り立て、営業をしていましたが、8年間ほどアルバイトで富士ネオンにいたことから、仕事に関しては何となくできる自信がありました。しかし、いざ入社してみると分からない事ばかり、現場に行けば現場監督さんに怒られてばかりでした。娘婿ということもあるのか、自社の職人さん達にも中々認めてもらえない日々…。前職で築いてきた実績なんて、何の役にも立たない、きつい毎日でした。

じゃあどうすれば認めてもらえるようになるか。とれる資格を全て取得しようと、考え実行しました。そしてネオン屋であるなら、ネオン管を作れる技術を身に着けようと、入社して2年目に東京の富士ネオンさん(故亀井社長)に修行に出してもらいました。阪神淡路大震災があった年でもありました。

看板を見て回る

ウイークリーマンションを借り、28歳にして初めての自炊、一人暮らし。夜になれば各駅を回り、実際の看板ネオンを目にする事での知識の集積に明け暮れました。田舎では目にできない素晴らしい看板、技術が有りました。輝いているネオンを目にできる喜び半面、当時2歳になる息子を長野においての一人暮らし…。正直寂しかったな~涙。

亀井社長が、たまに連れて行ってくれる近所の神社の縁日や、なじみのお寿司屋さんでのお寿司、武蔵小山の方の人情や親切さに、癒されておりました。また、亀井社長と兄弟子のスターネオンの篠崎さんに連れられて行く、納品時の車から見える街並みや、東京の大手看板屋さんとのやり取りが、当時の私には全て自分への財産になっていくような、そんな経験でした。

今日でも大変お世話になっている、東京の大手ネオン屋さんの様に、「こんなに輝かしくて、大きくて、見ている人間を魅了できる看板、サイン」をいつか手掛けられるようになりたいと思ったのもこの時でした。

見えない所ほど誠実に

今振り返ると、亀井社長との出会いが、現在の私の根底にあり、東京での経験、サイン協会への入会、大手ネオン屋さんとの繋がり、そして多くの仲間・同志(勝手に思っているのですが…)に出会え、ご指導いただけるのも、亀井社長のお陰だと思います。忙しさを理由に、墓前にも行けていませんが、現況報告に行かねばいけません。そして、数多くの助けて頂いた方々、恩師、協会に恩返しをしなければ!

業界に入り約35年、振り返るとリーマンショックから始まり、最近ではコロナ…。潤沢に仕事を頂けるときもあれば、受注できないときもあれば…。

下を向いて嘆いていても何も始まらない。楽観視していれば足元が簡単に崩れていく。だけど、「誠実に」安全な商品を、安全に設置する。当たり前の事を、当たり前に、確実に実行していく。見えない所ほど誠実に!「誠意」のある仕事が信用につながる。これを社員の全員と意識を共有して頑張っております。それが、自社のモットーであり、強みで有ると信じて、日々勉強・学習です!

関東甲信越北陸支部 富士ネオン㈱ 御子柴賢一郎

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